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「正義とは何か」を考えてみる [Essey]

 かなり以前に、ハーバード大学の講義「マイケル・サンデル教授の白熱教室」を観た時から違和感を感じ(笑)、見れば見るほど嫌いになり(笑)、「全然ダメだな」「全然違うな」と思い続けて有余年、ようやく、考えがまとまってきました(笑)

 世界的な大ベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「絶対的な正しさ、普遍的な正義など存在しない」としています。同感です。

 ある人にとっての「正義」は、それぞれが「自分にとって都合の良い」ことを「正義として主張している」に過ぎない、「相対的なもの」であるということですね。

 場合によっては「正義とは強者の利益のために作られたもの」という状況もありますね。

 人類の歴史上「正義」という概念は、結局、実社会では「法」として運用されてきました。

 個々人で「正義」が異なるので、「法で定めたことに、みんなが従うことにする」というルールは、とても「自然発生的に得られた現実論」という気がします。

 たとえそれが、ある人にとっては「悪法」であろうとも、(税金のように)不満があろうとも「法で定めたことには従おう」と。

 人類の歴史は、これを悪用してきた歴史でもあるのかもしれませんね。
 ナポレオンでも、ヒトラーでも、日本における政治の歴史でも。

 「法とは何か」言えば、人々の「決めごと」であって、人々が集まって「こうしよう、そういうことにしよう」と、多数決で決議し、決めたことに過ぎません。

 それは、その時点の「ルール」に過ぎないので、当然、どんどん変化しますし、追加・削除もされますし、やっぱり「全部取りやめ」になることもありますと。

 その「ルール」=「法」を破った人に対して、罰則を設けるかどうかも、その時の人々の判断で変化しますと。

 つまり、その時代、その時間に決めた人たち次第で、ルールは変わるし、法は変わるし、「正義は変わる」ということですね。

 ある時代では「男尊女卑」が正式な「法」として定められ、正しい行動、正義であったし、ある時代においては「男女平等」が「法」として定められ、正義になると。

 ある時代では「職業の固定化」が正義であり、ある時代においては「職業選択の自由」が正義になると。

 ある時代では「黒人奴隷制」が正式な制度として、法によって運用され、ある時代においては「人種差別」が否定されると。

 「正義」なんて、所詮、その程度のものだと。

 と解釈しつつも、でも本当に「正義」に対する認識は、これで良いのだろうかとも思いつつ、哲学書や思想・思索を探るわけですが、これといった「なかなか良いもの」が見つかりません。

 人類史上に残る「知の巨人」たちでさえ、なぜか「正義」に関しては、ほかの事象に対する思考の深さ、見事さに比べて、かなり見劣りした内容になっています。

 例えば、プラトンほどの人が「正義とは、国家の備えるべき至高の徳」としています。
 これでは「国家」レベルの話でしかありません。

 プラトンの弟子であるアリストテレスは「正義には、配分的正義と矯正的正義の2つがある」としています。

 「配分的正義」というのは、「各人の有する価値に応じた比例的分配が正義である」というもので、結局は「配分」、各人の取り分の話に過ぎません。
 せいぜい「取り分をごまかすなよ」というのが「正義」というレベルの低さで、まいります(笑)

 「矯正的正義」というのは、「法の前で平等とされる市民の間に現実に存在する不均等を矯正する調整の正義」という、一見難解そうな書き方ですが、結局は「不正や不当な利益は、調整されなければならない」というだけです。
 「正しく調整するのが正義だ」と。

 そういう、現実社会の、個々の、限られた場面での、「実社会における正義」ではなくて、もっともっと深い思考の、宇宙観にも触れるような「普遍的な正義」に関する「奥深い洞察」はないものでしょうか。

 例えば、仮に「普遍的な正義」があったとして、それを解釈・判断するのは「その時に存在する人に過ぎない」という指摘があります。

 結局は、その時に解釈・判断する人々が考える「正義」次第で、解釈・判断も変わってしまうのだから、それはもはや「普遍的な正義」ではないと。

 例えば、「権利の存在」は、普遍的に定義できても、その「権利を認めるか、認めないか」という「法」的な判断は、その時代、人々の集団の違いによって、変わってしまうと。

 「正しい」かどうかを「人が判断」している時点で、「普遍的ではない」という指摘ですね。

 ということは、仮に「人知を超えた普遍的な正義」があったとしても、その時代、人々の集団で、解釈・認識が異なってしまうのだから、そもそも「普遍的な正義」があろうとなかろうと、結局「人類にとっては何の意味もない」ということになってしまいます。

 ということで、「白熱教室」で感じた「違和感」につき、長年にわたって思考継続してきた結果、導き出された結論は、次のものとして、ついに決着した次第です(笑)

「正義とは、その時々に居合わせた人々が、感覚的に多数決で決めるルールに過ぎない」
by Virai
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有名な「漁師とコンサルタント」という話を考えてみる [Essey]

 この「漁師とコンサルタント」という話は、アメリカのビジネススクールでMBA(Master of Business Administration:経営学修士)を取得したコンサルタントが「いかに役に立たないか」を皮肉ったジョークらしいです。
 だいたいこんな話です。
−−−−−−−−−−−−−−
 メキシコの海岸沿いの小さな村に、MBAの資格を持つアメリカのコンサルタントが訪れた。
 ある漁師の船を覗くと、活きのいい魚が獲れている。

 コンサルタントは聞いた。
「いい魚ですね。漁にはどのくらいの時間かかるのですか?」

漁師「そうだな、数時間ってとこだな。」

コンサルタント
「まだ日は高いのに、こんなに早く帰ってどうするのですか?」

漁師「妻とのんびりするよ。一緒にシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子どもと戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しみ、それで、寝ちまうよ。」

コンサルタント
「なぜもう少し頑張って漁をしないのですか?」

 漁師「どうして?」

コンサルタント
「だって、もっと漁をすれば、もっと魚が釣れますよね。それを売れば、もっと多くの金が手に入り、大きな船が買えます。そしたら人を雇って、もっと大きな利益が出るじゃないですか。」

漁師「それで?」

コンサルタント
「次は、都市のレストランに直接納入しましょう。そうしたら、さらに大きな利益がうまれます。
 そうなれば、この小さな村から出て、メキシコシティに行きましょう。
 その後はニューヨークに行って、企業組織を運営すれば良いのです。」

漁師「そのあとはどうするんだ?」

コンサルタントは、満面の笑みでこう答えた。
「そこからが最高だ。企業をIPO(Initial Public Offering:新規株式上場)させて巨万の富を手に入れるんです。」

漁師「巨万の富か。それで、そのあとはどうするんだい?」

コンサルタント
「そしたら悠々とリタイヤさ。小さな海辺の町に引っ越し、家族とのんびりシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子どもと戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しむ。のんびりした生活を送れるのさ。」

 漁師はため息をつき、やれやれ、という顔で一言を付け加えた。
「・・・・そんな生活なら、もう手に入れているじゃないか。」
−−−−−−−−−−−−−−

 まあこれはこれでいいのですが、困ったことに、自分にとって、この「海辺の町で、のんびりと過ごす生活」が「まったく羨ましくない」ということに気づかされてしまったわけです(笑)

 自分でも「そうだったのか」とびっくりしましたが(笑)、こういうところで、まあ1週間ぐらいなら、のんびりするのは良いかもしれません。

 しかし、もしそれが2週間も続くと「大事な、自分の短い人生を、こんなところで、ただ無為に、無駄に、過ごしていて良いのか」という感情が、湧き起こってくることは間違いありません(笑)

 別に自分は、ワーカーホリックなわけではありません。
 単純に、「人生を楽しむ」「ひたすら遊ぶ」という観点においても、例えば、「世界最高峰のサッカー」を観ることが、自分の最高の至福の時間でもあるわけです。

 もし、十分なお金と時間があるなら、ワールドカップ、チャンピオンズリーグ、欧州選手権、南米選手権、そのほか、すべての世界大会を、現地に行って、直接観たいわけです。

 もちろん、サッカー日本代表の試合も観たいですし、応援したいですよね。
 海辺の田舎町で「食って、寝て」る場合じゃありません(笑)

 つまり自分の場合、こんな田舎の「海辺の町」にいたのでは、人生を「まったく楽しめない」「何もおもしろくない」「まったく羨ましくない」わけです(笑)

 サッカー以外でも、例えばローリング・ストーンズ、U2、ブルーノ・マースなど、世界ツアーレベルの音楽・構成・演出で、圧倒されるようなコンサートに行って、全身で打ち震えたいわけです。

 頭のてっぺんから足の先まで、圧倒的なエネルギーを浴びながら、その音楽性の高さに、鳥肌を立てながら、体ごと感動したいわけです。
 それこそが「自分にとっての幸せな時間」なわけです。

 「食べる」にしても、例えば「オテルド・ミクニ」のような「芸術的な域」にまで到達した、最高の料理を味わって感動したいわけです。

 もしお金と時間を問わないのなら、フランスのジョエル・ロブションの世界最高峰のコース料理を心の底から堪能したいわけです。

 たった1度の人生、田舎の「海辺の町」で、自分で漁をしてきた魚中心の同じような料理を(しかたなく毎日)食べてる場合じゃありません(笑)

 あるいは、大好きな映画にしても、例えばリドリー・スコット監督の最新作が、高画質/高音響の最新型シネコンで観られないなんて、そんなつまらな過ぎる生活、自分には無理なわけです(笑)

 自分にとっては、「小さな海辺の町に引っ越す」時点で、苦痛でしかないわけです(笑)
 何で、そんなつまらない毎日を過ごなくてはならないんだと。
 下手すれば、囚人じゃないかと(笑)

 という、この話の本来の趣旨とは、まったく違う受け取り方になってしまったのが、「自分でも意外で、おかしかった」という話でした、ちゃんちゃん(笑)


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