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映像の世紀「スターリンとプーチン」 [Essey]

■ ロシアのウクライナへの侵攻が続く中、再放送された NHK『映像の世紀「スターリンとプーチン」』より。

 この番組は、何ら「主義・主張」等と関係なく、淡々と「当時の映像記録 = 歴史的事実」を伝えるコンセプトで制作されているので、それに倣います。

 近代史・現代史を「正確」に知っておくことも大切ですね。

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1.スターリン

 レーニンから始まった「社会主義革命」は、ソビエト連邦として世界初の社会主義国を誕生させた。

 レーニンが 53歳という若さで死去すると、後継者争いは軍部を掌握していた「トロツキー派」と書記長として人事権を握っていた「スターリン派」との争いとなった。

 スターリンは人事権を悪用して、共産党幹部からトロツキー派を排除し、スターリン派のみを登用して権力の独占を謀った。

 スターリン派で独占すると、トロツキーを嘘の理由をでっち上げて秘密警察に逮捕させ、政府と党の全役職を解任し、国外に追放した。

 トロツキーはまもなく、亡命先のメキシコで暗殺された。

 最高権力者となったスターリンは、強国化政策を掲げ、重工業化と農業集団化を推し進めようとする。

 無謀な目標を掲げ、政策は失敗続きだが、外向けのプロパガンダ映像では「いかに “計画経済” がうまくいっているか」をアピールし続けた。

 すると当時、世界恐慌に襲われて資本主義に絶望していた者のうち、隠されていた「ソ連の内実」を疑わない、プロパガンダ映像を真に受けて、社会主義こそ「理想の国」と騙される人々が続出した。

 例えば、アイルランド出身の文豪「バーナード・ショー」は、「資本主義のアメリカよりも、共産主義のソビエトの方が優れていることが明らかになりました」と声高らかにメディアの前で発表した。

2.ウクライナ

 ソ連のプロパガンダ映像で、もっとも多用されたのが「ウクライナの穀倉地帯」であった。

 肥沃な土地に、効率的な農業集団化が成功した例として紹介された。

 土地はすべて国有化され、農民は全員「集団農場」に強制加入させられた。

 そして「共産主義」の名のもとに、収穫された穀物はすべて「国に徴収」され、農民には作付けの種さえ残らなかった。

 1931年、ウクライナは天候不順による凶作に見舞われ、農民たちが飢饉に陥り、現地の「共産党幹部」はスターリンに「一時的に取り立てを止めるよう」懇願した。

 しかしスターリンは、「ウクライナの飢饉というのは作り話だ」と言って収穫物の徴収を止めず、飢えによってウクライナ人300万人が餓死した。

3.狂ったスターリン

 スターリンの「狂気」は激しさを増し、内実を知った妻「ナジェージダ」は、必死に「全人民を苦しめる」のを止めるように言うが、聞いてもらえない。

 思い詰めたナジェージダは、ピストルで「抗議の自殺」を決行し、自らの命を持って「スターリンの狂気」を止めようとする。

 それでも「狂ったスターリン」は止めるどころか、「この女は私を見捨てた敵だ」と叫んだ。

 妻の死から2年後の1934年1月、指導部を選任する「第17回 共産党大会」において、代議員の約300人がスターリンへの反対票を投じた。

 怒り狂ったスターリンは、反対票を投じた「犯人捜し」を始めるが、無記名投票であったため、筆跡だけで特定するのは不可能であった。

 それを知った「狂ったスターリン」は、代議員の600人のうち、無差別に300人を処刑した。

 この「粛正裁判」ようすは、映像として残っている。

 裁判で罪は捏造され、「人民の敵」とでっち上げられ、次々に死刑宣告がなされていった。

 スターリンはこの映像を全人民に見せることで、恐怖政治を植え付けていった。

 これをきっかけに、代議員のみならず、軍人・知識人・一般人も「粛正」と称して実行され、なんと自国民2千万人が殺戮された。

4.独ソ開戦

 1941年、ヒトラーが2年前に締結されていた「独ソ不可侵条約」を破り、ソ連に侵攻してきた。

 当時「粛正」によって多くの「将校」も失っていたソ連軍は、組織的な戦闘が行えず、惨敗を繰り返した。

 全勝状態のドイツ軍はウクライナを占領し、「ソ連から抑圧されていたウクライナを解放し、住民から歓迎されている」というニュース映像を流した。

 ドイツ軍は、飢えていたウクライナ住民に食料を提供し、スターリンの弾圧に苦しんできた住民の間では、「侵攻」してきたナチスを「解放者」として歓迎するムードが広がった。

 ウクライナでは、スターリンの像が次々に破壊され、肖像画は燃やされ、「スターリンへの反旗」が全土に及んだ。

 全戦全敗で追い込まれたスターリンはさらに狂い、戦いに負けても「撤退を許さない」として、戦場に「特別阻止部隊」を派遣し、撤退しようと知る兵士を「敵前逃亡兵」として撃ち殺した。

 阻止部隊に捕らえられた兵士はその場で銃殺され、その家族は「強制収容所」へと送られた。

 ソ連兵は前後から撃たれるため、恐怖と憎悪で自暴自棄となり、ドイツ軍に向かって無謀な突撃を繰り返した。

 最前線のレニングラードでは、水も食糧も尽き、100万人以上が死亡した。

 それでもスターリンは、「我が国の人的資源は無尽蔵である」と言い放った。

 第二次に世界大戦におけるソ連の死亡者は、2700万人にのぼった。

 ようやくドイツ軍が撤退した8年後、激戦があったレニングラードで、ウラジーミル・プーチンは誕生した。

 1953年3月、ソ連の人民を苦しめてきたスターリンが死亡した。

5.プーチン

 少年時代のプーチンは、当時流行っていた柔道に熱中し、映画「スパイ・ゾルゲ」を観て感化され、スパイになりたい、なろうと思うようになる。

 プーチンは大学を卒業後、希望どおり「KGB」に入局し、徹底的な訓練を受けた。

 1985年、プーチンはスパイとして当時の東ドイツ ドレスデンに送り込まれる。

 その4年後の1989年11月、「ベルリンの壁」が崩壊し、市民の憎悪と怒りは頂点に達し、もと秘密警察署を選挙し、KGBベルリン支部へ殴り込んできた。

 プーチンは建物内で必死に秘密書類を焼却し、市民による暴動だとして、駐留ソ連軍に出動要請するが、彼らが到着したのは数時間後であった。

 こうして「社会主義国家 ソビエト連邦」は消滅し、周辺国の独立が相次いだ。

6.ロシアの激変

 レーニンから始まった「社会主義」が崩壊し、資本主義である「市場経済」が導入されて社会主義は消滅したのに、「共産党 独裁政治」体制は残るという異常な体制となった。

 紙幣は紙切れ同然となり、市民生活は破綻した。

 国営企業は二束三文で売却され、年金制度も崩壊し、家賃が払えずに野宿する老人が街中にあふれた。

 まもなく、市場経済をフルに活用した新興勢力が勃興し、新興財閥(オリガルヒ)へと膨張していった。

 こうして、貧富の格差は極限にまで達した。

 失意に陥ったプーチンは、忠誠を誓ったはずの KGBに辞表を出し、タクシーの運転手となって、なんとか生計を立てていた。

 そんなプーチンの転機となったのは、故郷レニングラードの市長選挙に出馬した母校の恩師に誘われ、選挙対策本部の一員になったことだ。

 元KGBの肩書きが役立ち、票田となる団体や新興財閥や外国企業とのコネクションも築いていく。

 市長選に勝利し、獲得票を伸ばした実績が認められ、市長の右腕として副市長に任ぜられ、政治家へと変貌していく。

 こうしたレニングラードでの政治的活躍が中央の目にも止まり、エリツィン大統領府にヘッドハントされる。

 その直後、エリツィンの汚職スキャンダルがすっぱ抜かれ、ロシア検事局によるエリツィン政権打倒作戦が開始される。

 すると1998年、エリツィンは KGBの後継機関「FSB」の長官にプーチンを指名する。

 プーチンはさっそく、FSBの諜報能力を悪用し、捜査妨害を始める。

 エリツィン汚職追求の急先鋒である検事総長の盗撮映像を公開し、スキャンダルで罷免に追い込み、絶体絶命であったエリツィンは窮地を脱出してしまう。

 エリツィンは、助けてもらった見返りに、プーチンを首相に任命する。

7.プーチンが大統領に

 1999年、ロシア史上最大の大規模テロ事件がロシア各地で発生し、大型マンションが爆破されるなど、300人以上が犠牲となり、大きな社会不安が起こった。

 首相となっていたプーチンは、当時ちょうどロシアからの分離独立問題に揺れていた「チェチェン共和国」を標的にして、何の証拠もないのに「このテロはチェチェンの仕業だ」と断定し、報道インタビューで「1人残らず抹殺する」と狂言した。

*元FSB局員のリトビネンコがイギリスに亡命後、「あのテロはFSBが実行した事件であり、その犯人を捜査するというのは自作自演だ」と暴露した。(その後、リトビネンコは亡命先のイギリスで毒殺された。)

 こうして「第二次 チェチェン紛争」が勃発する。

 プーチンは「あくまでテロリストの掃討」という嘘を建前に、大規模な軍事攻撃を開始する。

 プーチンは連日、ロシア国内のテロの犠牲者・遺族への見舞い映像と、チェチェンへの軍事侵攻を交互に報道させてプロパガンダを展開し、国民の支持率は70%を超えた。

 紛争が終了した2000年、ついにプーチンは大統領に就任する。

 プーチンは、クチでは民主主義と市場経済を標榜するが、実際は「独裁体制」を築くのが目的だった。

 そこで、政府に敵対する新興財閥(オリガルヒ)を徹底的に弾圧して潰し、国営化した。

 プーチンは、それまで富を独占してきたオリガルヒを糾弾する映像を流し、市民の溜飲を下げつつ、支持率アップにつなげた。

8.NATOへの宣戦布告

 2007年、「ミュンヘン安全保障会議」でプーチンは、NATO への事実上の宣戦布告をした。

 翌年、ソ連崩壊以降自粛されてきた大規模な「対独戦勝記念日」軍事パレードを復活させる。

 さらにはTVインタビューで、「独裁者スターリン」について「スターリン とスターリン主義」を褒め称え、ロシアは劇的な進歩を遂げたと狂言した。

 そしてドイツとの戦いにおいて「どれだけ犠牲者が多過ぎると言われようと、勝利したのである」と続けた。

 2022年、プーチンは「ウクライナ は、ナチスドイツの侵攻を解放として歓迎した奴らだ」として、スターリン以来の「ウクライナ占領」を目指して「狂気の侵攻」を開始した。』

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