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学校教育を考える<2> [Essey]

 明治政府によって始められた「学制」のしくみは、当時のフランスの制度を真似したものでした。

 フランスでは1870年、普仏戦争の敗北によって「第三共和政」が成立していました。

 戦勝国であるドイツ帝国のビスマルク宰相の承認のもと、L.ティエールが仮政府を組織し、75年2月にフランスの新憲法が制定されました。

 この時の教育制度を通じて「革命の祖国」「民主主義の祖国」としての「偉大な祖国フランス」というスローガンを、国民全員に植えつける(洗脳する)のに成功します。

 こうしてフランス国民はナショナリズムを高めていき、政府は軍備強化と対独強硬論を訴え、国全体で戦争機運を高めていき、第1次世界大戦に突入していきます。

 このシステムを真似して作られた日本の学制は、スタート当初、全国を8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区に分け、これをさらに210の小学区に分け、全国で53,760の小学校があったとされます。

 その目的は、日本を工業化し、経済活動を活発化し、不平等条約を結ばせて、その富を吸い上げ、同時に巨額の戦費を借金させ、他国と戦争させるための国民教育を浸透させるというものです。

 当時(無理矢理)日本の義務教育が開始された時点では、学校に通わない子ども・制度に反対する家庭の方が圧倒的に多い状態でした。

 「学制」がスタートからしばらくの間は、学校に通う子どもなど、ほとんどいなかったわけです。

 「学制」に従わなかったのは、子どもという貴重な労働力喪失への反発、高額な授業料に対する反発でした。

 「学制」のお題目は、「国民全員に、貧富の差や身分の違いなどに関係なく、平等な教育を施そう」というものでしたが、庶民が払えるような授業料ではなかったわけです。

 いかにも、ユダヤ系金融権力の内政干渉による「無理矢理」が引き起こした、矛盾だらけのマヌケな話です(笑)

 その前から、ユダヤ系金融権力に従順な明治政府による地租改正、徴兵令など、国民をないがしろにする政策に対する不満が噴出していたところに、この「学制」導入で国民の怒りは頂点に達し、各地で「学校焼討ち事件」まで勃発しました。

 こうして、たった5年(1879年)で「学制」は廃止され、代わりに「教育令」を公布することとなりました。

 さらに1886年、(付け焼き刃の)「教育令」を廃止し、帝国大学令、師範学校令、中学校令、小学校令を公布しました。

 ちなみに「学制」のスタートと同時に公布された「被仰出書(おおせいだされしょ)」には「学問に励めば、将来出世して豊かになれます」と書かれていました。

 それまで、大多数の庶民には必要とされていなかった学問を、全員にさせるための方便として使われました。

 被仰出書にある「学校で勉強すれば貧しい家庭のあなたでも将来豊かになれます」という立身出世の思想を、全国民に布教し始めたわけです。

 それをもっともわかりやすい、象徴するものとして作られたのが「二宮金次郎の像」です。

 勤勉に働き学んだ結果、農民から武士の階級まで出世した人として、明治以降の子どもたちに「勉強することに意味を持たせる」イメージ戦略として利用されました。

 洗脳システムを浸透させたい明治政府側は、プロパガンダとして「二宮金次郎の像」を、ほとんどすべての小学校の校庭などに設置しました。

 こうして「立身出世主義」の布教と授業料の減額・無償化などによって、ようやく日本の就学率は上昇していきました。

 しかし実態は、国民全体を中央統制化された政府の下で管理・教育し、近代工業化に必要な労働力を徴収し、戦争時には都合の良い兵士を確保しやすくするための「教育制度」であったわけです。

 工場労働における労働者は、機械の歯車と同じ扱いであり、必要とされるのは自主性でも主体性でもなく、ただただ「現場監督の指示に忠実に従って、働き続ける」ことです。

 そうした人間は、軍隊の兵士にも必要な属性であり、「労働者兼兵士」を作り上げる制度として、見事に機能しました。

 これが「日本の学校教育」制度、成り立ちの実態です。

 続きは「学校教育を考える<3>」にて。
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