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ロシア史「ロシアの源流」から現代までの変遷 [Essey]

■ ロシア史「NHK BS「ロシアの源流」」より

(一部、番組にはない補足情報の追加、視聴で得られた独自のインスパイアを含みます。)

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 ロシア は今でこそ大国ですが、もともとはヨーロッパの辺境に位置する弱小国で、数々の侵略を受け、蹂躙されてきた歴史があります。

 歴史 から、源流からのロシアの変遷を見ていきます。

◆ ロシアの源流
 9世紀(882年)、ロシアの源流となる「キーウ公国」が建国されます。

 この時は、現在のウクライナの首都キーウからモスクワまでが領土という小国でした。

 1223年、チンギス・ハーンのモンゴル帝国が襲来し、モンゴル軍に全領土を占領され、モンゴル帝国に吸収合併されます。

 モンゴル帝国の支配は、その後250年も続きました。

 ロシアの中心となるスラブ民族は、現在のルーマニアのカルパチア山脈周辺を原住地とし、中央ヨーロッパや東ヨーロッパに居住する農業民族でした。

 「スラブ」という言葉はロシア語では「弱い」という意味で、「奴隷」を意味するスレイブの語源になったと考えられています。

 モンゴルの庇護下で、モンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたことで、最高位に就任できたウラジーミル大公は、最終的にモスクワ大公と呼ばれるようになります。

 1533年からイワン4世がモスクワ大公に即位しましたが、彼にはモンゴル王朝の血も入っています。

◆ 動乱の時代へ

 15世紀の終わりに、衰退したモンゴル帝国の支配からようやく独立し、ユーラシア大陸の北限と東側の広大な真空地帯に版図を拡大していきます。

 ロシアの国境が不明瞭なのは、地理的な境界が少ないことが起因しています。

 例えば、スイスであれば、南のイタリアとの国境近くにアルプス山脈があり、西側のフランスとの国境にはジュラ山脈とレマン湖があり、天然の要害となっています。

 スイスとドイツとの国境は、西側はライン川によって隔てられ、東側はボーデン湖が国境となっています。

 ドイツとフランスの国境には、大河「ライン川」が流れて「自然国境」となっています。

 ロシアの場合は、モンゴル高原東部のアムール川が、中国との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点から生じていて、中流部も中国黒竜江省とロシア極東地方との間の境界となっているぐらいです。

 そのほかは、国境を分ける山脈等もなく「地続き」であることが、国境線を難しくしています。

◆ 動乱時代を経てロシア帝国へ

 1605年、「ロシアの動乱時代」と呼ばれる無政府状態にあったモスクワに、ポーランド・リトアニア共和国が介入し「ロシア・ポーランド戦争」が開始されます。

 これもロシアが敗れて、モスクワをポーランド軍に占領されます。

 6年後の1611年、モスクワ解放を目指す国民軍が結成され、激戦の末にポーランド軍を追放することに成功し、ようやくモスクワが解放されます。

 モスクワ解放後、ロマノフ家のミハイル・ロマノフがツァーリ継承者(皇帝という意味)に指定され、1613年にロマノフ王朝が誕生します。

 1682年、ピョートル1世がロシア皇帝に即位し、ロシア帝国と呼ばれるようになります。

 1762年、エカテリーナ2世はクーデターによって、夫から皇帝の地位を奪って女帝として即位し、40年弱の治世を治めます。

 ドイツの下級貴族からロシアに嫁いだエカテリーナは、ボルガ川中流流域にドイツの農民を移住させて先進農業技術を取り入れたり、周辺国との戦争に勝ったりして、国力を高めていきます。

 美術品の収集家としても有名だったエカテリーナは、エルミタージュ美術館を創設し、19世紀半ばには一般市民にも公開されました。

 エカテリーナ女帝は、米国の独立戦争(1775年~1783年)の際に武装中立同盟を提唱し、フランスとともに英国を国際的に孤立させることで米国の独立を支援します。

 アメリカの南北戦争の際、英国が独立以降の経緯や奴隷貿易の関係から南部を支援したのに対し、アレクサンドル2世のロシアは艦隊を米国沿岸に派遣して英国の介入を阻止しました。

 この直前、ロシアはオスマン帝国と同盟した英仏によってクリミアで敗戦し、屈辱的な条約を結ばざるを得なくなります。

 敗戦に伴う莫大な戦費の支払いに迫られ、ロシアは維持費のかかりすぎるアラスカを1867年に、友好国であるアメリカに売却しました。

 売却価格は当時のお金で720万USドルで、現在の価値では1億2千300万USドルです。

◆ ナポレオン軍の侵攻と日露戦争

 1803年、ヨーロッパ征服に乗り出したフランスのナポレオンは、ロシアにも侵攻し、モスクワを占領します。

 しかし、ロシア軍がモスクワからの撤退時に火を放ち、モスクワが焦土と化したため、兵站の現地調達ができなくなり、冬の寒さを凌げる家屋もなく、冬将軍(寒さと飢え)によって撤退を余儀なくされます。

 1881年から84年にはポグロム(ユダヤ人に対する集団的迫害行為)が起こり、1903年からはユダヤ人の海外脱出が増えていきました。

 1904年、ロシアの南下政策によって、満州の支配権をめぐって日露戦争が勃発し、中国大陸が戦場となりました。

 日露戦争の資金がなかった日本政府は、戦費調達のためにニューヨークへ派遣された高橋是清が、ロンドンでHSBCのロンドン支部長であったキャメロン(イギリスのキャメロン元首相の高祖父)を中心とする金融団から、500万ポンド(1億円)の融資を受けます。

 さらに、夕食会で高橋の隣に座ったニューヨークのユダヤ系のクーン・ローブ商会代表のジェイコブ・シフから、500万ポンドの融資を受け、戦争期間中に総額2億円を貸し付けられます。

 当時としては、巨額の戦費を借金したことで、大量の兵器を購入し、日本に有利な条件にて、アメリカを介したポーツマス条約の締結でロシアと講和します。

◆ 世界大戦

 1914年、サラエボ事件に端を発した第一次世界大戦が勃発し、ロシアは連合国側について参戦するも戦果は得られず、長引く戦争による不況で国民の不満が高まりました。

 1917年 2月、労働者による大規模なストライキ(2月革命)の発生し、大量の兵士も革命側に合流したことで制御が利かなくなり、ニコライ2世が退位に追い込まれます。

 こうして、304年続いたロマノフ王朝が終焉して、労働者・農民・兵士からなる新政府ソビエトが設立され、世界初の社会主義国家ソビエト共和国となりました。

 1922年、10月革命を皮切りとして、革命派の赤軍と反革命派の白軍による内戦が勃発(ロシア内戦)し、赤軍の勝利によってソビエト共和国を盟主とするソビエト連邦が成立します。

 1939年、それまで水と油とされたナチス・ドイツと「独ソ不可侵条約」を締結しますが、1941年にはドイツが一方的に条約を破棄して侵攻し、連合国側として第二次世界大戦に参戦します。

 1945年8月8日、ヤルタ会談における密約に基づき、日ソ中立条約(41年締結)を破棄して日本に宣戦布告し、千島列島、南樺太、満州に侵攻します。

 1945年9月2日、日本も降伏して第二次世界大戦が終結し、戦勝国となったソ連は、敗戦国から多くの領土を獲得します。

 1979年、アフガニスタンが反共産武装勢力の手に落ちたことを受け、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、戦いは10年にも及んで、1万4000人以上ものソ連兵が戦死しながら、最終的に撤退しました。

 2012年、ウラジーミル・プーチンが大統領に再就任すると、2014年にクリミアに侵攻して一方的に併合、2022年にはウクライナに侵攻し、1年以上経った今も戦争が続いています。

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