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映画『2001年 宇宙の旅』制作秘話 [Movie]

■ NHK BS アナザーストーリーズ「 “ 2001年 宇宙の旅 ” が開いた未来への扉」より

 今から52年も前に制作・公開された、#SF映画 の金字塔『2001年宇宙の旅』。その困難な制作秘話、アナザーストーリー。

 「人々を初めて宇宙へ連れて行った映画」
 by スティーブン・スピルバーグ

 1968年に制作されたこの傑作は、スタンリー・キューブリック という天才監督と、アーサー・C・クラーク という天才SF作家による共同脚本という「夢のタッグ」がもたらした。

 我の強い2人の天才は、4年もの間、互いに反発しながらも高め合い、人類がそれまで見たこともなかった「前人未到の宇宙」へ初めて到達することに成功した。

 2人の天才は「映画の構想」を話し合う中で、「地球外生命体をどうするか」について長く議論を交わした。

 お互いに「いやそれは違う」と却下し合った末に、天才クラークがとんでもないアイデアをひねり出す。

「本当に進歩した地球外生命は、完全に無機質かもしれない」
 by アーサー・C・クラーク

 それを聞いた瞬間、「それだ」とキューブリックは興奮し、キービジュアル「モノリス」の制作を美術スタッフに命じる。

 ある意味「神」とも言える「究極の知性」が、有機物であるはずがないのだ。

 シリコンチップのような無機物、半永久的に存在できる素材に違いないのだ。

 有機体など、脆くて、はかなくて、弱々しくて、制約ばかりであって、そんなものが「神」であるはずがない。

 ましてや「神」に、顔や手足があるなんていう発想が、稚拙すぎるにもほどがある。

 そしてもう1つ、天才クラークが閃いた「AI(人工知能)が発達すると、人間の仕事を代替するようになり、人間はいらなくなる」というアイデアに、キューブリックは魅了される。

 宇宙船をコントロールするAI「HAL9000」が、あまりにも脆弱で、判断力も決断力もなく、計画の足ばかり引っ張る「人間」は「ミッションの邪魔」と結論付け、抹殺するシーンを追加する。

◆ 困難を極める映像制作

 当時の半世紀も前は、ガガーリンが「人類初の衛星軌道を1周する」という快挙を成し遂げたばかりであった。

 「地球は青かった」というコメントを聞いただけで、写真すらない。

*映画公開の翌年、世界で初めて「実際の地球の映像」が放送された時、キューブリックは「映画の地球は色が薄過ぎた」と言って怒り出したという。

 セットを作る美術スタッフも、撮影するカメラスタッフも、誰ひとり宇宙の映像など見たこともない。手がかりも、ヒントすらもない。

 そんな状況で、宇宙の無重力状態と、クラークのアイデア「船体を回転させる」ことで生み出す「人工重力」がある船体部分を撮影しなければならない。

 「誰も見たことがない未来の世界」をどうやって、映像化するというのか。

 当時にはもちろん、特撮専門チームもないし、CGもあるわけもない。

 美術スタッフとして視覚効果を担当したのは、ダグラス・トランブル であり、4年もの「長き戦い」に悪戦苦闘した。

 キューブリックの要求は常に高く、何度でもやり直しさせられた。

 キューブリックに何を持っていっても、「まだ誰も見たことのない映像が欲しいんだ」と言われた。

 NASAのデザイナーを雇って宇宙船のデザインに協力してもらい、細部までリアリティを追求した。

 筒型のセットを作って「セットを回転」させ、俳優がワイヤーで吊されながら、その場で歩く振りをすると、体は90度「横向き」のまま船内の「人工重力」エリアを歩くという、驚異的な映像を生み出した。

 キューブリックからの無理難題でもっとも困難だったのは、歪んだ時空を通ってワープする「スターゲイト」を通過する映像、というものだった。

 CGもない時代に、視覚効果スタッフは頭が狂いそうになりながら、トランブルは「写真カメラで移動する光源体を長時間露出で撮影し、光の残像を撮影する。それをさらに移動させる」という手法を発明した。

 それはまさに「宇宙の星々の間を、歪んだ時空内を、高速で移動する」ように見えた。

 トランブルはのちに、スピルバーグからの依頼で「未知との遭遇」の美術スタッフ・視覚効果を担当することになる。

◆ 美術スタッフを追い詰める「モノリス」の制作

 映画で最重要なキービジュアルである「モノリス」は、当初のキューブリックのイメージは「ピラミッド型で透明」というものだった。

 そこで、アクリル会社に問い合わせてみると、「技術的にピラミッド型にするのは不可能で、直方体が精一杯」というものだった。

 監督にそれを報告すると、「わかった、直方体でいこう」ということになった。

 数週間と数千万円をかけて、キービジュアルとなる「巨大なアクリル板モノリス」が完成し、撮影スタジオに持ち込んだところ、監督は一言「なんてことだ、これじゃただの透明な板だ。片付けろ」と言った。

 その後、「モノリス」は14回も作り直された。

 美術監督のマスターズは、ついに「透明」を諦め、漆黒にすることを思いつく。

 漆黒の「モノリス」は、キューブリックを圧倒した。それはあまりにも神秘的で、洗練されていた。

◆ 映画のラストシーン

 映画のラストシーンは、共同脚本である2人の天才が激しくぶつかり合い、さらに難航する事態となった。

 クラークは作家らしく、ラストを説明するナレーション原稿を書き上げる。

 実際、クラークの小説版「2001年 宇宙の旅」には、結末について明確に説明している。

「モノリスから、人間を含む多くの種族が誕生したのだ。」
 by アーサー・C・クラーク

 つまり、神であり、無機物である「モノリス」から、人間を含む有機体が生み出されたのだと。

 そして、映画のラスト「ボーマン船長が新たな赤ん坊として登場し、地球を軌道上から見る」というシーンで、ようやく人間も「モノリス」に近づく存在へと進化できたのだと。

 対して、キューブリックは「映像作家」らしく、視覚的に物語を見せようとし、難解であっても構わない、人によって受け取り方が違って構わない、興ざめするナレーションは不要と、ナレーションを一切入れなかった。

 クラークは「説明がないと意味がわからない、理解してもらえない」と激突したが、キューブリックは頑として受け入れないまま、映画の公開日を迎えた。

 そうした結果、当初は観客のうち、比較的「知能の低い」者は「わからない、つまらない」と言い、映画館を途中で出てしまう者までいた。

 映画会社の幹部たちも軒並み、あくびをしたり、つまらなそうにする者ばかりだった。

 しかし、映画公開から数日後、「知能の高い」鑑賞者たちからの「これは凄い、絶対に観なければダメだ、これはまったく新しい映画体験だ」という口コミが拡散していき、そこからは連日「押すな押すな」の超満員が続き、空前の大ヒットとなった。

 1度見ただけは理解しきれないと、2度・3度観に来る人も少なくなかった。

 観る者が「自由に解釈する」というキューブリックの考えが支持されたのだった。

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映画「哭声/コクソン」完全 解説 [Movie]

 先日、たまたまWOWOWをつけたら、この映画がちょうど始まって、なんとなく観ているうちに、その強烈さに、ついつい最後まで観てしまいました。

 そしてこれまた「いろいろと解釈が分かれる作り」になっていて、ネット上でもかなり異なる解釈が乱れ飛んでいました。

 2016年の映画ですし、自分なりの解釈をブログにして載せるかどうか、しばらく躊躇していたのですが、いろいろ考え直したり、もう1回見直したりしているうちに、考えがまとまってしまったので(笑)、久しぶりの「完全解説」にすることにしました。

*すでに映画を観終わった方向けの思い切り踏み込んだ詳細解説なので、まだ観ていない方はご注意ください。

 もちろん、あくまで自分独自の「解釈」なので、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)

 人それぞれ受け取り方が違いますし、違って良いのですし、映画をどう楽しんでも良いわけで。

 あなたの考えを私の考えに合わせる必要はありませんし、私の考えをあなたの考えに合わせる必要もありません。

 初めから「人によって考えが違う」ことは、もうわかっているので(笑)、わざわざ「自分は違う」「それは違う」と表明しなくて大丈夫です。

 この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じで、参照程度でお願いします。

◆この映画の「世界観」について

 韓国の静かな山間部にある村、コクソン(谷城)で、家族内や近親者による、異様で猟奇的な、一家皆殺し事件が続発し、その原因として、謎の日本人(國村隼)が関わっていると噂されます。

 その真偽が不明なまま、主人公の中年警官の娘に、同じような異変が始まり、主人公が次第に噂を信じ始め、警官であるにもかかわらず、娘の異常事態に、徐々に常軌を逸し始めます。

 娘を助けたい一心で、謎の日本人を殺さなければと思い詰め、狂態に走って行くという「韓国ならでは」という感じのオカルト・ミステリー・サスペンスですね。

*ちなみに、韓国では(この猟奇的な暗さなのに)空前の大ヒットだったようです(笑)

◆映画公開時のインタビューに答えた監督自身の言葉とは

 本編上映後、ナ・ホンジン監督は、インタビューで、

「この映画のテーマは、“混沌・混乱・疑惑”であり、作品の解釈は、観客それぞれの判断にゆだねたい」

と答え、わざと解釈が分かれる作りにしているとのことでした。

 監督としては、そこを楽しんで欲しいということなのでしょうね。

 そして、ナ・ホンジン監督はクリスチャンであり、同時に「韓国のキリスト教」は今、独特な状況下にある、という点も含み置きたいところですね。

*「統一教会(世界基督教統一神霊協会‎)」による各種の所業、「聖神中央教会事件(信者の少女を強姦)」「摂理(キリスト教福音宣教会)の教祖である鄭明析が、多数の犯罪容疑で国際指名手配に」「天父教の協会が所有する山林から1000体以上の遺体が出てきた事件」など。

◆「解釈」の手がかりになる要素について

1.旧約聖書と新約聖書の世界観について

 映画の冒頭に、新約聖書からの引用である、次のテロップが流れます。

(十字架にかけられて死んだのに、また生き返ったキリストを見た人々に対して)

「人々は恐れおののき、霊を見ていると思った。
 そこでイエスは言った。なぜ心に疑いを持つのか。

 私の手足を見よ。まさに私だ。触れてみよ。
 このとおり肉も骨もある。

 ルカによる福音書24章37-39節」

 監督の意図としては、旧約聖書と新約聖書の世界観を持ち込むということだったようですね。

 「旧約聖書の世界」というのは、ユダヤ時代のエルサレムであり、そこに(よそ者である)イエス=キリストがやって来ると。

*旧約聖書の概要
 神がこの世を作った天地創造、アダムとイブの話、ユダヤ教、ノアの方舟、モーセの十戒など。

 そこからのエピソードが「新約聖書の世界」であり、エルサレムの住人たちをコクソンの村人に置き換え、謎の日本人(國村隼)をイエスと置き換えることで、映画のラストシーンに繰り返される台詞に帰結していくと。

 謎の日本人が、

「私が何者か、いくら言ったところで、お前の考えは変わらない」

「どうして、心に疑いを持つのか?」
「私の手や足を見なさい」「まさに、私だ」

と、冒頭の新約聖書「ルカによる福音書」を伏線とする言葉を言うと、そのようすを見ている神父「イサムの目」には、目が赤く光る、長い爪を持った毛だらけの、まさに「悪霊」として見えていきます。

 イサムは、目の前にいる者を「神ではなく、悪魔だと信じて見ている」から、(その心情が投影されて)そう見えていくのだと。

 また別の人が、異なる心情で、同じ姿を見たら、別の姿に見えるかもしれないということなのでしょう。

2.「神と悪魔」を同時にイメージさせる演出

 映画が始まると、謎の日本人(國村隼)が、釣り針に餌をつけて釣りをするシーンから始まり、その直後、その場に居た女性に「この薄汚い淫売が」と言って、あたかもレイプするようなカットからスタートします。

 天国から地上人を釣り上げるのは神様であり、女性をレイプするのは悪魔的所業であり、常に同時性、並列性で演出しようとする、監督の意図を感じるシーンに感じました。

3.惨殺事件に対する「現実的な原因」と「オカルト的要素」の並列性について

 猟奇殺人の犯人はすべて、徐々に正気を失い、皮膚に赤い湿疹が増えていき、全身を覆う頃に実行に及ぶ、ということが示されます。

 その経緯が、主人公の中年警官の娘に、同じような異変が起こることで、主人公の焦りが増していき、「なんとかしなければ、このままでは」という行動の理由、徐々に追い詰められて、異常行動に走って行く理由として示されます。

 映画の序盤では、主人公は警官なのに、ビビりで、弱々しくて、温厚であることを、伏線として、いろいろなシーンで示されます。

 連続猟奇的殺人犯に対する鑑識の結果、犯人全員の体内から「毒キノコ」の成分が検出され、幻覚作用によって正気を失わせ、赤い湿疹を生じさせ、錯乱状態に陥り、狂気的な行動を取った原因という見解が示されます。

 錯乱し、首をつって自殺した女(=謎の日本人にレイプされたという噂の女)からも、幻覚性「毒キノコ」の成分が検出されます。

 そして、警察から「幻覚作用のある毒キノコが健康食品に使われ、それを食べた市民による殺人事件が相次いでいる」という発表があります。

 にもかかわらず、村人たちはなぜか、よそ者(=謎の日本人)の仕業だと噂し、あの男に「何かをされて、おかしくなった」と信じ込んでいきます。

 さらに、主人公の娘が、おばあさんをはさみで刺して、重傷を負わせます。

 するとなぜか、娘の家族たちは、これは悪霊の仕業に違いないと、高名な祈祷師に助けを求めます。
 謎の日本人は悪魔であり、それを退治してくれるのは、祈祷師だと。

 観ているこっちとしては、いやいや、健康食品に使われた「幻覚作用のある毒キノコ」はどうしたんだと。
 まずは解毒剤でも飲むのが先でしょうと。

 ところが、この祈祷師が悪魔払いの儀式を始めると、娘のヒョジンも悶え苦しみ出します。

 祈祷師が、悪霊に見立てた木偶の胸や腹に、次々に鉄の杭を打ち込むと、娘は、その杭が打たれた場所を押さえて絶叫します。

 そして、同時に実は、謎の日本人も、山奥で祈祷しています。
 その祭壇に供えられている写真は、森の中の軽トラックで発見した腐乱死体である、胸に「パク・チュンベ」と書かれた服を着た男です。

 すると、軽トラの中のパクの遺体が、息を吹き返したかのように微かに動きます。

 この2つ祈祷が交錯することで、鑑賞者は、「祈祷師が悪魔払いで謎の日本人を攻撃」し、「謎の日本人は、娘を攻撃している」ようにも見えます。

 同時に、見方を変えると、祈祷師が木偶の胸や腹に鉄の杭を打ち込むたびに、同じ箇所を娘が痛がるので、祈祷師が娘を攻撃しているようにも見え、それで娘が「お願い、祈祷をやめて」と言っているようにも見えます。

 あるいは、謎の日本人が、腐乱死体の写真を掲げて祈祷し、死体が息を吹き返すことで、死んだ者を蘇らせる神の奇跡のようにも見えてきます。

 そして、死体を蘇らせた「代償」として、謎の日本人が、祈祷師が杭を打つのとは別の箇所を抱えて苦しみ、死の直前まで、死の淵にまで達します。

 祈祷がクライマックスに近づくにつれ、娘があまりにも苦しみ、もう1度「お願い、祈祷をやめて」と訴えるため、その苦悶の姿を見るに忍びなくなった主人公が、強引に中止させてしまいます。

 すると娘は、落ち着きを取り戻します。と同時に、謎の日本人もギリギリ命を取り留めたようにも見えます。

 このオカルトチックな展開は、なんなのでしょう。

 赤い湿疹や錯乱状態は、幻覚性「毒キノコ」が原因ではなかったのかと。
 なぜ、祈祷なんかに、左右されるんだと。

 さらには、なんで、腐乱死体まで、蘇るんだと。

4.オカルトチックなストーリー全開の展開へ

 主人公は、「娘の異常は、謎の日本人のせい」と思い詰め、警官であるにも関わらず、殺しに行こうとします。

 するとなぜか、謎の日本人が蘇らせた、腐乱死体「パク・チュンベ」が、ゾンビのような状態で、襲って来ます。

 頭を農具で突き刺しても、その動きを止めません。

 めちゃくちゃに攻撃して、やっと動きを止めさせると、謎の日本人がこっちを見ているのを見つけ、みんなで追いかけますが、逃げられます。

 しかたなく諦めて、トラックで帰る帰り道、女祈祷師が謎の日本人に見つかり、なぜか追いかけられ、崖の寸前で身をかわすと、謎の日本人が崖から落ちてきます。

 すると、タイミング良く、主人公が運転するトラックが、謎の日本人をはね飛ばします。

 主人公は、はね飛ばした人を確認しようと、恐る恐るトラックから降りて近づいて行くと、道路で死んでいたのは謎の日本人だったので、崖下に投げ捨てます。

 女祈祷師は、その一連のようすを、崖の上からずっと見ています。

5.観る者の心情次第で、真逆にも見える「二面性」の提示

 結局、この映画は「観る者が、“どう見るか”次第で、真逆にも見える「二面性」を提示したかった」のかなと思いました。

 「一方的な見方」に対する「危険性」の提示、先入観や思い込みに対する全面否定、自分自身の「見方」次第で、物事は「救済」にも「絶望」にもなり得るんだと。

 その「二面性」は例えば、映画の登場順で言えば、「謎の日本人」は、映画の最終盤で「手に聖痕があることが示され、十字架に吊されたキリスト」であること、1度死んでも、蘇った者=神の存在であること。

 逆に、神父でさえ、信じる心がなければ「悪魔」そのものに見える存在にもなり得ること。

 主人公は、ビビりで、弱々しくて、温厚であったのに、娘の異常事態に直面すれば、警察官であるにもかかわらず、すべての道徳を捨て、殺してやると思い詰める、あそこまで狂っていくのかという二面性。

 男の祈祷師も、女の祈祷師も、本物の、実力もある祈祷師であり、嘘はないし、すべて本当のことしか言っていないと。

 ただし、その時の「見方」によって、偽物のようにも、嘘を言っているようにも見えるし、「善」側にも、「悪」側にも見えると。

 男の祈祷師は、旧約聖書側の「ユダヤ教の司祭」であり、初めは(彼にとっての異端者である)謎の日本人を「悪の根源」と考え、のちに「実はキリストであった」と気づくと。

 女の祈祷師は、新約聖書側の「キリスト教のシャーマン」であり、キリストを迫害する「ユダヤ教徒」を敵対視すると。

 しかし、男の祈祷師がその後改心し、謎の日本人=キリストを受け入れることで、主人公に「2人がグルだ」と言うと。

 そして、今だに改心しない主人公に、「罠を仕掛けた」と言い、キリスト側を信じれば救われるのに、信じないなら、最悪の事態になるという選択肢=最後のチャンスを提示すると。

 なのに主人公は、最後まで信じることができず、結界を破って、最後の「魔除けの花」が枯れ、(キリスト側の教徒となった)娘に刺されてしまうと。

 結局、神も悪魔も、それを見る者の「見方」次第であり、見方を変えればありがたいものにもなり、違う見方ををすれば恐ろしいものにもなると。

 善も悪も、同時に両方が存在し、一人ひとり「異なる」ものであり、「見方」次第で、真逆にもなるし、不要な、余計な、勝手な先入観が、人々を狂わせていくのだと。

 このような「善悪の定義」については、「性善説と性悪説(更新版)」で考察したとおりです。

 単なる「猟奇的なオカルト」ではなく、哲学的な宗教観に基づく、韓国の「キリスト教」観という、特殊な事情に基づく、深い映画でしたね。

<外部参照サイト>
◇國村隼インタビュー
https://spice.eplus.jp/articles/108502
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映画「LUCY/ルーシー」完全 解説 [Movie]

 「テイク・シェルター」以来の「自分なりの解釈」をつい書きたくなる映画「LUCY/ルーシー」の完全解説を試みたものです。

 すでに映画を観終わった方向けの思い切り踏み込んだ詳細解説なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*ここからは「もう観た方を対象に」ということで、ストーリー、監督、俳優などについては省略しますね。

*それからこれは、あくまで個人的見解なので、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)
(人それぞれ受け取り方がありますし、ああ、この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じでお願いします。)

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◆この映画の「設定」について

 監督のリュック・ベッソンは、事前にいろいろと入念に下調べする人のようなので、荒唐無稽に見えても、実は“彼なりのロジックがある”ことを前提にして解釈していくことにします。

 まず、この「映画=フィクション」としての「設定」ですが、新麻薬「CPH4」の一部が体内に漏れ出した影響で「脳が覚醒」し、脳が本来持っている「能力」が「もしも100%発揮したら」という「世界観」ですよね。

 これはあくまで「フィクション映画」としての(脚本としての)「設定」なので、「今回はそういうストーリーを描きたいのね」と認識することにします。

 その「映画の設定」においては、イルカが「自分の脳の20%に、アクセスして能力を発揮しているのに、人間はそれにも劣る、10%しか発揮できていない」と、序盤にエクスキューズがありますね。

 イルカは、20%活用できているから、脳から放出する「超音波」を操ることができると。
 その「イルカのエコロケーション」は、人間が作った、どのソナーシステムよりも高い精度であると。

 よって人間でも、もっと「脳」本来の能力を活用できれば、脳から「超音波を発信」できるかもしれないし、それを操れるだろうし、現状のどんなソナーシステムよりも高精度の計測、操作ができるはずだと。

 この映画中の「ノーマン教授」(という設定)の話では、人がイルカ並みの20%以上の脳を使えれば、「イルカが超音波を自在に扱うように、他の物資に干渉できる可能性がある」としていますね。

<「ノーマン教授」の仮説とルーシーの能力開花の関係>
20%覚醒:身体制御能力が画期的に向上し、痛覚等の感覚を制御・遮断できる。
30%覚醒:エネルギー、電気、電波、電磁波などの流れを感じ、視覚的に捉え、操ることができる。
40%覚醒:他者の肉体をコントロールできる。
50%覚醒:あらゆる物質を(物理的に)自在にコントロールできる。
60%覚醒:エネルギー・重力の制御ができる。
70%覚醒:分子構造の転換による肉体の変形制御や他物質との融合ができる。
80%覚醒:時空間をコントロールする四次元の世界へ突入でき、時間も場所も、自由に移動できる。
100%覚醒:自分を含む物質的なものを開放し、「私はいたるところに存在する」という状態に達する。

◆現在の最新「脳科学」について

 これらはあくまで「映画の設定」なので、現実とはちょっと違うのでしょうが、たいへんおもしろい視点ですね。さすがベッソン監督です。

 現実では「アルツハイマー(認知症)治療」が、医療業界にとってビッグテーマですので、さまざまな研究が盛んに行われ、「脳を活性化する」新薬や「記憶を呼び戻す」方法の研究が、実際に進んでいますね。

*京都大学 大学院 工学研究科の浜地 格教授らは、狙金属錯体(金属や金属イオンが分子の中心に位置する化合物)を導入することで、膜受容体を人工的に活性化することに成功しています。
 「膜タンパク質受容体」は、細胞外の特定の物質を選び結合すると構造が変化し、細胞内に情報を伝え、生理活動に影響を及ぼすという発見に至りました。
(人工的に、選択的に、狙って「脳を活性化できる」ことの証明でもあります。)

*理研-MIT神経回路遺伝学研究センター利根川進 センター長(ノーベル医学生理学賞受賞)らは、「PDGFR-β」が活性化すると「脳の神経の再生が促進される」ことを発見しています。

*富山大大学院医学薬学研究部の山本誠士助教らは、「脳の神経が再生する」際に、重要な役割を果たすたんぱく質が「インテグリンα3」と「CXCL12」であることを発見しています。

 また最新の「脳科学」分野では、PET検査やMRI検査による研究によって、脳は「全体を一度に使う」のではなく、「働く部分と休ませる部分」があり、「右脳と左脳、脳の各部位によって司る機能が違う」ということがわかっていますね。

 そして、脳は全体が順番にまんべんなく使われていて、各部分が特化しているわけではなく、右脳のある部位が損傷した場合には、左脳の別の部位が右脳の仕事を分担したり、代行できることもわかっていますね。

◆アインシュタインの「相対性理論」について

 この映画のおもしろさを理解する上で、重力や時空間に関する「アインシュタインの相対性理論」を多少なりとも知らないと、単なる荒唐無稽なつまらない映画になりかねないので(笑)、ざっと復習の意味も込めて、まとめてみます。

<アインシュタインの「相対性理論」>
 「特殊相対性原理と光速不変の原理」により、運動座標系における「電磁気現象」を、簡潔に「静止座標系におけるマックスウェル方程式に帰着させる」理論が「特殊相対性理論」である。

 「特殊相対性原理」により、「磁場は、電場の相対的効果」であり、電気力学と光学(電磁波)に対する法則が、「力学の方程式」が成り立つすべての座標系に対しても成り立つ。

 「一般相対性理論」では、空間は「時空連続体」であり、その「時空連続体」は均質ではなく「歪んだもの」になる。

 つまり、「質量」が「時空間を歪ませる」ことによって、「重力が生じる」と考える。

 よって現代の物理学では、「重力は、一般相対性理論で記述できる」と考える。

 運動座標系における「電磁場理論」により、棒磁石とコイルによる「電磁誘導現象」によって、コイルを固定すると「棒磁石を動かす」ことができる。

 逆に、棒磁石を固定し、コイルを動かすと、そのコイルに流れる電流には、電子に対して「ローレンツ力」が働く。

*ローレンツ力:ヘンドリック・ローレンツが発見した「電荷を持つ粒子である荷電粒子が、磁場中を運動する時に受ける力」のこと。陰極線に磁場をかけた時に、その軌道が曲がる原因になる力。

 電流とは「自由電子の運動である」ので、電磁気学における基本的な電流と磁場の関係は、導線を「測定者に対して静止した座標系」であり、電流を「一定間隔を保ったまま、導線に対してドリフト速度 v で等速直線運動する自由電子群の座標系」とみなすことができ、ニュートン力学でいう「運動エネルギー」となる。

◇アインシュタインのもっとも有名な方程式「E = mc²」について

 質量を持つ物質は、 mc² のエネルギーを持ち、この第一項を「静止エネルギー」と呼ぶ。

 「質量を持たず」に有限のエネルギーを持つ物質は、常に光速で走り続けねばならないため、「光速で移動する」エネルギーを持つ物質は、すべて質量が「0」となる。

 「一般相対性理論」の基本方程式(アインシュタイン方程式)は、静的な「ニュートンの万有引力の法則」を包含しており、万有引力の法則との主な違いは次の3点である。

1.重力は、瞬時に伝わるのではなく、光と同じ速さで伝わる。
2.重力から重力が発生する(非線形相互作用)。
3.質量を持つ物体の加速運動により、重力波が放射される。

*「重力波」とは、時空(重力場)のゆらぎが光速で伝播する現象をいう。

*アメリカを中心とした国際研究チーム「LIGO」は、「重力波」の3回の観測に成功(2015年9月と12月、2017年1月4日)している。

*「LIGO」の研究者3人:米マサチューセッツ工科大学のレイナー・ワイス名誉教授、カリフォルニア工科大学のバリー・バリッシュ名誉教授、キップ・ソーン名誉教授が、この重力波観測の功績により、2017年のノーベル物理学賞を受賞。

*アインシュタインが100年前に、重力波の存在を予言していたが、ついに「重力波天文学」という新たな学問が誕生し、すでに重力波研究の時代に突入している。

 上記「3.」の「重力波放射」は、荷電粒子が加速運動することによって、電磁波が放射されることと類似する。

 アインシュタイン方程式の左辺は「時空の曲率」を表し、右辺は「物質分布」を表す。

 右辺の「物質分布」の項により、時空が曲率を持ち、その曲率の影響で、次の瞬間の物質分布が定まる、という構造になっている。

 特殊相対性原理により、「エネルギーと質量は等価」であるから、エネルギー運動量の減少は、「質量の減少」を意味する。

 逆に「時空の曲率増加」は、「重力の増大」を表す。

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 ということで、この映画の中で、人が飛ばされたり、浮いたり、ふっとんでいったのは、上記の物理法則によるのねと認識したわけです(笑)

◆ラストへ向かうストーリー展開について

 この映画中の「脳科学者ノーマン博士」は、講演中に「自己が得た情報をどのように(未来へ)つないでいくか」について、その方法を2つ示しました。

 1つは「生存環境が合わないときは不死」を選び、もう1つは「生存環境が合うときは繁殖をする」というもの。

 主人公ルーシーは、CPH4が「妊娠6週の妊婦が胎児に栄養分として作る物質」と知り、このままだと薬が引き起こす急速な細胞分裂で死ぬことを悟り、「私は24時間以内に死ぬ」と言います。

 つまり、「生存環境が合わない」ために(「繁殖」ではなく)「不死」を選ぶことになり、映画のラストで、端末に表示される「I am everywhere(私はどこにでもいる)」というメッセージが、それを示します。

 自分を含む物質的なもの(肉体)から開放し、意識が「すべての物質と同化した状態」=「不死の存在」になったことを示唆します。

※その前段の伏線として、フランスへ行く飛行機内で、ルーシーの身体が崩れかけるシーンのバックに「ノーマン博士」の不死に関する見解が流れるシーンがありました。

 ルーシーは、CPH4によって脳が覚醒し、宇宙空間の発生、生命の誕生といったすべての事象を知るに至ります。

 どうすれば良いかわからないルーシーが、ノーマン教授とのテレビ電話で、「その知識を伝えよ、それが生物の生きる意味である」と諭され、死ぬ前に研究室にやってきます。

 最後の残り3つのCPH4をすべて摂取すると、脳が100%覚醒となり、口から光エネルギーを発射し、肉体が崩壊して液状になり、研究室のスーパーコンピューターと融合し、究極のスーパーバイオコンピューターに進化します。

 ルーシーの「意識」は、時空を超え、ニューヨークへ飛び、過去の時空の「全情報を網羅」していきます。

 自由に時空を移動し、恐竜の時代まで遡り、人類の時代まで戻り、「人類最初の女性」とされるアウストラロピテクスのルーシーとルーシーが出会います。

※そうか、それで映画のタイトルが「Lucy」なのかと、やられました(笑)

 Lucyは、100%覚醒した脳の意識で、ありったけの「知」を獲得し、「得たもの」を象徴的なデータとして「ノーマン教授」に手渡します。

 ルーシーは「どこにでも存在する」ので、USBメモリのような媒体は、あくまで物質化(可視化)した「象徴的」なものに過ぎないのでしょう。

 ここで、深い哲学的テーマが提示されます。

「ルーシーの得た知識を、人類は使いこなすに値する存在だろうか?」

 深いですね、凄い映画です。


LUCY/ルーシー [DVD]

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「テイク・シェルター」ラストシーン 完全解説 [Movie]

「メメント」以来の「自分なりの解釈」をつい書きたくなる映画の登場です(笑)

 これも、すでに映画を観終わった方向けの思い切り踏み込んだ詳細解説なので、まだ観ていない方はご注意ください。



テイク・シェルター(Blu-ray)

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*ここからは「もう観た方を対象に」ということで、ストーリー、監督、俳優などについては省略します。

 なぜ「自分の解釈」を書きたくなるかと言えば、なんと言ってもあのラストです!
 いろいろな解釈ができるラストシーンなわけですが「自分は次のように解釈しました」というのを書きたくなったわけです(笑)

 これも、この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じでお願いします。(人それぞれの受け取り方があると思うんで、自分と違うからって反論しないでくださいね。違って良いのですから(^^ゞ)

 その「ラストシーン」を解釈する際に、まずその土台になる、この映画の全体的なコンセプトを考えてみたいと思います。
 「どんな映画を創りたかったのか」という点ですね。

 映画全体を俯瞰してみると、ヒッチコック的な、サイコサスペンスの映画が撮りたかったんだろうなというのは誰もが感じると思います。

 実際、ヒッチコックの「鳥」で出てきたような、人に対して攻撃的で、恐怖を感じる不気味な「黒い鳥の大群の来襲」が何度も描かれていて、ヒッチコックへのオマージュかなと思いました。

 あるいは「家族」という類似性では、キューブリックの「シャイニング」も、同じ「狂気を扱う」ジャンルなのかもしれません。

 そして、カーティスの母親が統合失調症を病んで入院し、母親発症時の年齢に近づいてきた自分も発病するのではないかという恐怖を抱いているという設定が、恐怖・ストレスの一因として描かれています。

 映画の最初の方に、会社の同僚と話していて、その同僚は「夫婦仲が悪く、3Pをした」という話をしたあとに、「おまえみたいに、普通が一番なんだ」と言われるような、平凡で実直な男の「ごく普通の家族」という設定です。

 以上の「全体的コンセプト」から勘案して、SF的な「予知能力」とか、ディザスター映画のような「世紀末的破滅」「大災害による人類滅亡」といった「非日常的な特殊な世界」を描く映画ではないということですね。

 あわせて、主人公も、SF的な「未来を予知する特殊能力者」といった設定ではないということですね。

 ごく普通のブルーワーカーが、ヒッチコックの「サイコ」のように、精神に変調をきたし、「心理的倒錯に陥っていく恐怖」を描く映画を創りたかった、ということですね。

 次に、このような「よく練られた映画」で、必ず「解釈の助け」になる「伏線」を考えてみたいと思います。

<現実にはあり得ない「嵐」の描写>
 「カーティスの悪夢」は、いつも映画の流れの中で唐突に始まり、カーティスが目覚めることで、鑑賞者は「ああ、このシーンは主人公の夢だったのか」と認識します。

*いつも悪夢は「前触れなく」スタートし、いきなり「目が覚める」ことで、鑑賞者は「夢であったことを知る」という方式で構成されています。
 そして、主人公の目が覚めたのだから「ここから先のシーンは、夢の続きではなく、現実の世界」と認識します。

 その「夢か現実か」を分けるのが、現実にはあり得ない、あの「色つきオイルの雨」と「それを浴びた人々が凶暴化する」という表現になっていますね。

 つまり、「色つきオイルの雨」や「凶暴化した人々」の登場によって、鑑賞者は「ああ、このシーンは現実ではない、カーティスの悪夢の中の話なのね」と認識します。

*ラストシーンを観るまで、なんで「雨が色つきオイルなの?」って、ずっと思ってました(笑)
 雨が「色つきオイル」であるわけがないし、そもそも雨を「色つきオイル」という設定にした意味が(それ以外には)ないんだもの(笑)

<悪夢の中に、妻(サマンサ)が出てくるシーン>
 あの「色つきオイルの雨」を浴びた妻と見つめ合い、キッチンの包丁がアップになった時、「あら、ついに悪夢の中とはいえ、妻にまで刺されて、目が覚めても、妻をも遠ざけるようになってしまうの?」と思いましたが、そうはなりませんでした。

 これは「カーティスの悪夢の中には、妻も娘も(その前の悪夢で車の中から暴漢に引きずり出されるシーン)登場する」ということを示す「ラストシーンへの伏線」なんだと解釈しました。
 かなりの長さがあった割には、ただ、見つめ合っただけで、刺されることもなく、ただそのまま目が覚めるというシーンでしたので。

 もちろん、ストーリー上、翌朝「妻に触られて恐怖を感じるシーン」や、その少し先のシーンで、妻から「私も怖がったでしょう? 夢に出てきたの?」というセリフもありますけど、すぐにそれらは解消されるので、意味合いとしては「ラストシーンへの伏線」の方に、より重きが置かれたシーンと思います。

<本当の嵐が過ぎ去ったあとのシーン>
 本当の嵐が来た時、けたたましいサイレンを聞きながらシェルターに逃げ、嵐が過ぎ去ったあと、外に出ると、全然たいした嵐ではなく、近所の人たちが嵐で落ちた枝を拾っているシーンです。

 こんなシーンをわざわざ入れたのも「現実の嵐」では、悪夢とは違って「この程度」なんだという「伏線」と解釈しました。
 そんな「化け物じみた嵐」なんか現実にはあり得ないし、「そんなことを描きたい映画じゃないです」と。

 つまり、この映画はSF的パニックムービーではないので、「色つきオイルの雨が降る、終末的な嵐」などというものは、この世には存在せず、そんな非現実的な嵐は「夢の中にしか存在しない」し、「カーティスの妄想に過ぎない」ということを示す「伏線」と解釈しました。

■そしてラストシーン。
 このラストシーンへは、カーティス一家で「本命の」医者のカウンセリングを受けている病室のシーンから、(例によって)いきなり「ビーチのシーン」へと、パッと切り替わります。

 その前の、医者が「まずしばらく休暇を取って、ゆっくりした方が良い、あのシェルターからなるべく離れた方が良い」と言い、妻が「実は毎年ビーチに旅行に行っていて」と応えます。

 その次の瞬間、お金がなくて断念したはずの「ビーチ」のシーンに切り替わるので、観ていて「あれっ、お金はどうしたんだろう」と思いました。

 これまで「ビーチ旅行」には、空缶に保管している封筒に、へそくりをしていくほどお金がかかることを「伏線」として提示済みです。
 そして、大切な一人娘の手術も控えていて、「その費用も不足している」という「伏線」も提示済みです。

 よって、「ビーチには行きたくても行けない」状態のはずです。つまり「お金が何とかなって、ビーチに行けたらいいのにな」という、彼らの「夢」のはずです。

 その娘との「夢のような」幸せいっぱいの砂遊びをしていると、娘から、沖の方に「この世の中にはあり得ない巨大な竜巻がある」ことを示され、この「夢のような幸せなひととき」は、「カーティスの夢に過ぎない」ことが、娘によって示されます。

 さらに妻が、雨が「色つきオイル」であることを確認するシーンによって、このビーチはカーティスの「夢」であることを「ダメ押し」します。
 これまでどおり「こんな巨大嵐」なんてこの世に存在しないし、「色つきオイルの雨」なんてあり得ないので、鑑賞者に対して「ここはまたカーティスの夢のシーンですよ」と。

 主人公は娘を抱っこして妻を見つめ、妻も夫を見つめて小さく頷き、主人公と娘は家の中に入りますが、妻は中には入らず、そのまま「色つきオイルの雨」を浴び続けます。

 これを観ていて、「うわ、今度こそ妻が凶暴化しちゃうのか?、悪夢の中でどうなるんだろう」と思いましたが、ずっと嵐を見つめている妻は「あれが、あなたが言う嵐だったのね」という感じで(初めて夫を理解できたかのように)そのまま嵐を見つめ続けます。

 妻が、あの迫り来る「巨大な嵐」に対して、逃げるどころか、憎々しげに睨みつけている姿が、とても印象的です。

 確かに、妻にとってみれば「大切な愛する夫を狂わせる、憎き心理的病巣」ですもの、睨みたくもなるというものです。
 妻にしてみれば「この巨大嵐さえなければ、私たち家族は今までどおり、幸せに暮らせるのに」と。

 その妻の後姿を見つめる、娘を抱っこした主人公も、逃げ出したくなるのを必死に我慢し、なんとかその場に踏みとどまります。
 自分はこれを観ながら「そうか、これは、カーティスの病状改善の「入口」を示すシーンなんだ」と思いました。

 今まで、誰にも理解してもらえなかった「自分の病巣」を、妻も娘も知り、理解し、自分も逃げずに、そこに踏みとどまって、「家族で一緒に立ち向かっていくんだ」という「決意の表れ」に、ついに変化した「カーティスの悪夢」。

 ここから先は、たとえ「悪夢の中」でも、家族三人で「一緒に乗り越えていくんだ」というラストシーンなわけですね、かっちょいいです。
 で、つい書きたくなりました(笑)

◆その他のディテールについて

<妻がいかに愛情にあふれた家庭的な女性であるかを示すシーンの数々>
 映画の前半は、妻がいかに夫と娘に献身的な愛を注ぎ、たとえどんな困難な状況になっても、「決して諦めない」という性格を示す、妻の設定のバッグボーンになる描写の数々ですね。
 本当に「こういう奥さんがいたらいいのにな」と思いました(笑)

<娘が「聴覚障害者」である設定が示すもの>
1.精神を煩うカーティスの娘も、やはり「外界との遮断性」を秘めているのか、というのを感じました。(三代に渡って受け継がれていくのか?という)

2.家族で「手話教室に通って習っている」ことで、「家族の絆、苦労、お互いを思いやる気持ち」を示す、とても自然な描写ですね。(シャワーも浴びずに行って、臭いと笑うシーンも含めて)

3.「父親の異常さ」を描く際、「娘の手術よりも、シェルターを作ることを優先する」とした場合、軽度の治療ぐらいではあまり大事ではないので、娘の「聴覚障害が治るかもしれない」という重要度こそ、妻が思わず「ひっぱたく」ぐらいの精神的変調を表現できる設定になるわけですね。

<自分は10歳の時に、実の母親に置き去りにされたという設定>
 その過去があるため、「自分の家族だけは絶対に離さない」と誓い、それだけは守っていることを示し、「たとえどんなに狂気に陥り、そのために親友は裏切ったとしても、家族にだけは危害を加えない」というメンタリティーを提示する理由にしていますね。

<家の庭に深く穴を掘り、避難用シェルター作りに没頭する設定>
 つまり、現実の世界においても、彼は外界と閉ざされた、内なる空間を求めていたのではないでしょうか。(「ひきこもりたい」といった衝動)

<ガスマスクが示すもの>
 最初「なぜガスマスク? 雨は問題あっても、空気は関係ないだろ」と思いましたが、これも「外界との遮断」に対する「異常性」の表現のひとつなのでしょうね。
 確かに正常な人は、嵐が来た時に、ガスマスクをかぶろうとは思いません(笑)

<カーティスの食堂での怒り爆発>
 このシーンによって、ついに近所中に、カーティスの異常性を知られることになってしまうわけですが、そうなっても、妻も娘も「カーティスを見放さない」んだという、強い愛情と覚悟を感じさせるシーンですね。

 夫をどこまでも深く愛し、近所中からどう思われようとも、夫を支え続ける妻の強さ、愛情の深さを示し、どこまでも、諦めずに、この夫の「心理病巣」に、敢然と立ち向かっていくという思いを示すシーンですね。
 これも、ラストの「巨大嵐を睨みつける」シーンの「妻の意志」を示す「伏線」のひとつなのかと。

<本当の嵐のあと、シェルターの扉を開けて外に出るシーン>
 妻が、夫の心理的倒錯を解く「きっかけ」にするため、現実の嵐が過ぎ去ったあと「あなたが開けないと意味がないの」と、これまでにない強い調子で言い、うながすシーンですね。
 自分で開けるべき扉は、「心の扉」でもあるわけですよね。

■じゃあ、このあとは?
 ここで映画は終わっていますが、もしこのあとの続きを考えてみるなら、次のようなものではないでしょうか。

◇カーティスが、この「ビーチの夢」から、病院のベッドまたは自宅のベッドで、目を覚ます。

◇ベッドの傍らでは、妻と娘が心配そうに見ている。(あるいは、もう「一人だけ専門施設に入所した治療」が始まっていて目覚める?)

◇唯一「お金の問題」が残るが、場合によっては、自宅ごと売却して「ローンの返済」「娘の聴覚障害手術費」、さらに自分の「専門施設への入所費」を捻出するのかもしれない。

◇この「ビーチの夢」をきっかけに、本命の医師の指導により、家族の支えもありながら、少しずつ「巨大嵐の恐怖」に立ち向かい、何とか恐怖に打ち勝つ(リハビリ?)治療をしていく。

◇治療後は、家族揃って、慎ましやかな賃貸にでも移り、仕事を見つけ、いずれはカーティスの悪夢も完全に消えていくのかもしれない...。

テイク・シェルター [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 松竹
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X MEN 3 [Movie]

 昨晩、プレミアイベント(試写会とパーティー)っての行ってみましたっ。

 「20世紀FOXプレミア会員」ってのになってるもんで、招待カードが届いて。

 今回は、会場が映画館じゃなくって、なぜか六本木のTATOU TOKYOっていうレストラン。

 開演19:00で、レストランってこともあり、軽食つきっていうのもなかなか。(混みあってあんまり食べられなかったけど。)

 そのレストランに、スクリーン張って、映写機持ち込んで、椅子並べてって、たいへんな労力だなァって、ついスタッフサイドの視点になっちゃったりして。

 さらに全員に、3の豪華パンフレットとX MEN 1のDVDというおみやげつき。(費用かけてるゎ。)

 で、映画は、X MEN は、1も2も観てるし、最近、TV CMもかなり流れ始めてるんで、3の「ファイナル ディシジョン(最後の決断)」ってのは、どうなのかなって思ってたんだけど、やっぱり、相変わらずおもしろい(^^)

 最近のSFX映画らしく、10秒単位って感じの、これでもかっていう凝縮ぶりには、びっくりだゎ。やってくれるゎ。

 映像の派手さ・完成度は、1よりも2の方が上、2よりも3の方が上であることは間違いないでしょう。

 でも、話の内容としては、1が一番おもしろい気がするなァ。

 1は、人間とミュータントとの微妙な関係、反目か友好かっていう心理的な要素が中心に描かれてて、自分がミュータントになっちゃったっていう葛藤が、なんとも切なくて。

 強大なパワーを持っていながら、社会的な立場は弱いっていうのが、新鮮な観点だなァと。(原作コミックからの視点なんだろうけど。)

 その点、今回の3は、映像的な凄さ、完成度、「物理的な要素」の方が中心って感じかな。

 自分としては、もっと「最後の決断」っていう、心理的な葛藤を描いて欲しかったんだけど。

 とはいえ、いつもの登場人物が、いつもの能力を発揮して、新たなキャラもいろいろ出てきて、期待どおりって感じでした。

 ってなことで、1や2がおもしろいと思った人にはお奨めです(^_-)

X-MEN 1&2 DVDダブルパック

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  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2003/09/12
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超難解映画「メメント」完全解説 [Movie]

 いったいどうなってるんだという、超難解な映画「メメント」の完全解説を試みたものです。

 思い切り踏み込んだ詳細解説なので、まだ観ていない方は、観てからにしていただければと思います。
 それからこれは、あくまで個人的見解なので、自分と違うからって反論しないでくださいね(^^ゞ
 人それぞれの受け取り方があると思うんで、ああ、この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じでお願いします(^^)

メメント/スペシャル・エディション

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  • 出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
  • 発売日: 2005/09/22
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 ここからは、もう観た方を対象にということで、特にストーリーとかプロット、監督・俳優などについては省略させてもらいますね。

 この超難解映画を整理するには、登場人物ことに、キャラクター設定とストーリーでの役どころから考えていくのが良さそうなので、まずはそこから。

■テディ:ジョン・ギャメル(悪徳警官)
 レナード(サミー)の家に対する押し入り強盗事件を担当した警官。
 レナード(サミー)の話を信じて哀れに思い、2人目の犯人(薬代欲しさの金銭目当てで押し入ったヤク中)に復讐するのを認め、探し出すのを手伝い、復讐を見届け、そのまま黙認する。

 レナードが復讐を果たした時に、レナードの嬉しそうなポラロイド写真を撮ってやる。
 その後、ジミーの麻薬密売事件の担当になり、捜査をしていく中で、レナードを利用して、ジミーの麻薬売買代金20万ドルを横取りしようと思いつく。

 それ以降は、本名を隠し、テディと名乗り、レナードにもテディと呼ばせる。
 モーテルに泊まらせ、電話嫌いのレナードに電話をかけ続け、電話に出なくなるとドアの下に封筒を入れて答えさせ、麻薬密売人ジョン・Gの話を吹き込み、復讐すべき相手と思わせる。

 首尾よく、レナードにジミーを片付けさせ、レナードを騙したままジミーの20万ドルを手に入れようという時に、逆にレナードに射殺されてしまう。

■ジミー(麻薬密売人)
 郊外のモーテル「ディスカウント・イン」で、麻薬の取引を行っている。
 フロント係のバートと顔見知りで、短時間記憶喪失のレナードの噂話などもしていた。

 テディが周辺をかぎまわっていることは知っている。(もしかすると、口止め料を渡していたかもしれない。)

 テディに騙され、呼び出された廃屋に行くと、なぜか、レナードがいて、テディにはめられたと気づいた時にはすでに遅く、レナードに絞め殺される。

■ナタリー(ジミーの女)
 普段は、FERDY'S BARで働くバーテンダをしているジミーの女。
 店のコースタを使った麻薬密売の連絡係として、ジミーの手伝いをしていた。

 ジミーの車(超高級車ジャガー)で、ジミーの高級スーツを着て現れたレナードに話しかけ、ジミーではないことに驚く。
 店の中での会話によって、ジミーから「ディスカウントにおかしいのがいる」と噂話をされていた男であり、テディ(刑事)が「自分が何をしたかもわからない男」と言っていたのが、この男ということを知る。

 店の常連客と、本当にそんな短期記憶障害みたいなことがあるのかと、酒代を賭けることになっていて、さっそく「つば入りビール」で試してみる。

 ドッドに、ジミーの20万ドルを横取りしたのが自分ではないかと勘違いされ、居場所を探され、狙われていることを知り、レナードを利用して、ドッドを遠ざけようと思いつく。
 レナードがドッドを殴り、縛り上げたポラロイドを見て、うまくいったことを知り、レナードにやさしくする。

 レナードがタトゥーとして入れているナンバープレートを車検局の知り合いに問い合わせてみたら、車の持ち主がジョン・ギャメルとなっていることを知り、店でよく見かけていた男だと気づく。

 ジミーがテディに会いに行ったまま行方不明になったことから、おそらく、ジョン・ギャメルがジミーをはめたと考える。

 ジミーの女だったナタリーは、レナードにナンバープレートの持ち主を教える際に、復讐相手の「ジョン・G」だと思わせるように話し、車検証と免許証のコピー、居所も知らせ、殺させようと仕向ける。

■ドッド(ジミーの相棒)
 ジミーから20万ドルの分け前をもらっていなかったことから、ナタリーが金を持っているのではないかと考え、ナタリーを探し始める。
 ナタリーに騙されてドッドのところにやって来た「ジミーの車に乗ったレナード」を見つけ、殺そうとするが逃げられる。

 自分のモーテルに戻ってくると、先回りしていたレナードに酒ビンで頭を殴られ、縛り上げられる。
 銃を突きつけられたまま、街の外れまで行かされ、2度と街に戻るな、街に戻ってきたら殺すと脅される。

■エレン(サミーの妻)
 本当のサミーは独身だったので、レナードの妻であり、エレンがサミーの話として、レナードに話すことは、実はレナード自身に妻から語りかけられたことなのだろう...。

■レナード(サミー)
 保険会社調査員。
 夜中、押し入り強盗に妻はレイプされ、犯人の1人を撃ったものの、2人組のもう1人の犯人に頭を殴られ、心理的ショックと脳へのダメージで、記憶障害になる。

 しかし、事件後の記憶も断片的にはフラッシュバックしてくる。
 実は、脳の機能としては、記憶できないわけではなく、心の病として、記憶することを自ら拒否しているらしいことがわかってくる。

 左手の甲という、もっとも目の行くところに「Remember Sammy Jenkins」というタトゥーを入れている。
 しかし本当のサミーはただの保険金詐欺師で、レナードがをそれを見破ったことがあっただけだった。

 自分自身が、妻をインシュリン注射で殺してしまったという現実から逃避するために、レナードの中では、妻は強盗犯に殺されたことに置き換える。

 インシュリンを重複注射して妻を殺す、という行為については、それをしたのはサミーだということに、自分の中で置き換える。
 つまり、妻の死は強盗犯、インシュリンの誤注射は、サミーと置き換えることで、自分が犯した罪から逃れようとする。

 少しの記憶さえ次々に消したいほどつらい出来事であり、自己防衛本能の発動であり、心の病(狂気)を発症したのだろう...。

<コールガールを呼んでの遺品焼き>

 妻の遺品を焼くことで、遺品と一緒に、時々断片的にフラッシュバックする妻の記憶さえも消滅しようと何度も試みるが消しきれない。

 その度に、妻の遺品を買ってきて、コールガールを呼び、トイレのドアの音で起きるようにし向け、妻の遺品であることにし、それを焼く(炎とともに消失して欲しい)という儀式を繰り返す。

 自己防衛本能にもどづく脳の働きから、つらい記憶をすべて消し去り、メモだけを「真実」として行動をしていくようになっていく。

 サミーという名の男は、自分が初めて保険の調査を担当した独身男の名だが、それと過去の自分が人格が結合し、もうひとつの人格「サミー・ジェンキンズ」を作り出す。

 少しずつ倒錯傾向が強くなりだしたレナードは、自分の体を傷つけるタトゥーの数を増やし、痛みによって、自分の生を確かめるかのように傾斜していく。

 それまでは、テディ、そしてナタリーに、復讐すべき相手を吹き込まれ、それをあたかも自分自身で探し出したように倒錯しながら、復讐を続けていく。

 もはや、復讐する相手を探し、それを殺すことしか、生きる目的を失ったレナードは、ついに自ら、次のターゲット(テディ)を作り出すようになる。
 復讐相手の自己創作を始めたレナードに、もう、テディは必要なかった...。

■ラストシーン
 テディからレナードへの残酷な真実の通告。

・1年前に、レナードの復讐は完了していた。しかし、それさえも忘れてしまい、一度殺した復讐相手をまた探し始めた。

・レナードは、自分の行為のサミーへの転化を忘れないように、誰かれ構わずサミーの話をし、その内容も、どんどん変化していった。

・本当は、レナードの妻がサミーの妻であり、糖尿病で、レナードの症状を疑っていた。

・レナードの妻はレイプ事件の時には命は助かった。その後、すぐに忘れるレナードに、連続してインシュリンを注射され、死んでしまう。

・犯人を見つけ、レナードに教え、お膳立てをすべて整えたのは悪徳ではあっても「刑事」のテディであって、レナードは探偵ごっごをしてみたが結局、真犯人も何も見つけられないまま、テディのお膳立てのとおりに復讐しただけだった。

<警察資料の間引き>

 レナードは、事件のこと、自分が妻を殺してしまったこと、それらの証拠を消さなければ生きていけない状態になっていたため、自ら明確な記述部分を消滅させた。
 そして、もう犯人への復讐は終わったのに、それも忘れ、また新たな犯人捜しを始める。

 警察の記録、12ページがなくなれば、また謎が生まれ、犯人捜しが可能になり、その犯人への復讐だけを目的として、また生きていけるからだ。

<ラストシーンの補足>

 このテディの残酷な真実を聞いているうちに、消し去っていたはずの記憶が戻りそうになり、自己防御反応的に、テディを殺そうとする意識が芽生える。

 テディの過酷な通告を消さなければならないレナードは、テディの話はすべて嘘だということにして、ポラロイドに書き込み、テディの話を裏付ける証拠写真、2枚のポラロイド(自分が写ってるのとジミーを殺したあとの写真)を焼く。

 テディにさせられた2件の殺人も忘れることにして、また新たなジョン・G探しを始めることにする。
 その真犯人をテディ(ジョン・ギャメル)にするという、ついに、復讐相手の自己創作を始める。

 映画のラストカット「Emma's Tatoo」も、途中の「新たな犯人、ジョン・キャメル」が乗る車のナンバープレートをタトゥーに入れているシーンにつながる。

 追いかけて店に入ってきたテディは、なんとか、車ごと20万ドルを奪おうと、レナードに対して、「車を後ろに回しておくからキーを貸せ」とか、「デカが探しているから、服も身分証も「車」も変えよう」と言う。

 しかし、すでに「テディの嘘を信じるな」と書いていたレナードは、その話を無視し、裏口から逃げる。

 その時に、ジミーの服のポケットにあったFERDY'S BARのコースター、ナタリーのメモを見て、店に行ってみることにし、ナタリーが「ジミーが来た」と間違えるところにつながる。

<映画のラストから伝わってくること>

 自分の内なる世界と、自分の外側に存在する世界。

 内なる世界は、妄想と不確かで断片的な記憶とで倒錯していく。外側の世界には、復讐すべき敵がいくらでもいる...。

CHRISTOPHER NORAN 2-TITLE BOX メメント コレクターズ・セット

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Matrix(マトリックス)の形而上学 完全解説 [Movie]

 おそらく「マトリックスが好きだ」という人は、ストーリーやアクション以上に、その背景に描かれる世界観、概念、が好きなように思えます。

 逆に、「マトリックスはたいして好きじゃない、おもしろくない」という人は、映像の派手さ、アクションシーンに目がいってしまってるのかなという気がします。

 シンプルな「勧善懲悪」的ストーリーという捉え方、認識なのかもしれませんし、「1作目はおもしろかったけど、2作目、3作目はイマイチ」という発言にも、それが現れるのかなという気がします。

 「マトリックス」は最初から3部作なので、2作目、3作目を観ることで、改めて1作目のおもしろさも倍加する作品と思います。

 2作目、3作目で明らかにされる「思想と哲学」によって、あらためて1作目が「ああ、そうだったのか」と、より理解が深まるのを感じます。

*監督・脚本のウォシャウスキーブラザーズは、映画会社ワーナーのプロデューサーに、いきなり「3部作の映画を作らせろ」と言ったそうです。長編映画未経験なのに(笑)

 ということで、映画「マトリックス」の背景に流れる「思想と哲学」(自分の解釈では形而上学)について、自分なりの完全解説を試みます。

*形而上学:アリストテレスの著作に始まり、ギリシャの3大哲学者、ソクラテス→プラトン(ソクラテスの弟子)→アリストテレス(プラトンの弟子)によって、確立された学問。  アリストテレスの形而上学は「概念の学」であり、宇宙の真理や人間の真理を探求するもの。

*すでに映画を観終わった方向けの解説なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*ここからは「もう観た方を対象に」ということで、ストーリー、監督、俳優などについては省略しますね。

*それからこれは、あくまで個人的見解なので、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑) (人それぞれ受け取り方がありますし、ああ、この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じでお願いします。)

マトリックス 特別版 [DVD]

マトリックス 特別版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
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 まずは題名の「Matrix」ですが、そもそもの「マトリックス(またはマトリクス)」の意味は次のとおりです。(Weblio英和辞典より)

マトリクス 【 matrix 】【名詞】
1.(ものを生み出す)母体、基盤、発生源
2.鋳型、(活字鋳造の)字母・母型、(複製のもとになる)原盤
3.【鉱山】母岩(宝石・鉱物などを含んでいる)石基
4.【数学】行列、マトリックス
5.【電子計算機】マトリックス
【語源】
 ラテン語「子宮、母体」の意

 実に、この映画の象徴的なものをすべて包含した、素晴らしいタイトルですね。

 では、この映画の根底に流れる「映画の枠を超えた思想と哲学」について、深速思考してみたいと思います。

◆監督・脚本:ウォシャウスキーブラザーズのインタビュー

 DVD-BOX Disc8「マトリックスと哲学」に、ウォシャウスキーブラザーズのインタビューがあり、「ジャン・ボードリヤール著『シミュラークルとシミュレーション』(1981年出版)」から、ストーリーのヒントを得た」と話していますね。

 ジャン・ボードリヤールと言えば、『消費社会の神話と構造』で有名な、ポストモダンとして代表的なフランスの哲学者、思想家です。

 「MATRIX」という単語も『シミュラークルとシミュレーション』に登場してきます。

 それから、デカルトからカントに受け継がれた知覚主義、意識と懐疑、“選択する”ということの意味への考察、原因と結果の因果関係論などの思想も取り込まれています。

 これらの背景にあるのは、人が「自由意志」だと思って行動していたことが、実は「必然的な選択ではなかったのか」という「自由意志への懐疑」ですね。

 ザイオンに生活する人々が「マトリックスからの覚醒者である」というところでは、デカルトの「知覚主義」=「“存在する”ということは、“知覚”されることである」という、「方法的懐疑論」を感じさせますね。

 ソクラテスの思想「無知の知」にある、 「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。」 というやつですね。

 自分がマトリックスの中で、“飼い殺し”されていることを知らなかったという「無知」さ、「そうであったことを知った時、そうであることを知らない者より、賢い立場になる」ということを意味しているとも言えます。

 “仮想の自分”ではなく、“生身の本当の自分”を知ることから始まるというあたりは、デカルトの「我思う故に我あり」ですね。

 ネオが初めて登場するシーンで、PCの前でうたた寝していて、サイバージャンキーが違法プログラムを買いに来るシーンでは、違法なプログラムソフトの隠し箱とした本は、ボードリヤールの「模型に付随する世界」であり、中をくり抜いて隠していました。

 この「模型に付随する世界」では、「モデリング論」が展開されていて、「マニュアル主義」=「与えられた選択」=「創造性がない世界のありよう」を哲学的に論じたもので、これも象徴的なアイテムとなっていますね。

 「主体性なく、モデリングどおりに行動する奴隷は、それに気づきさえしなければ、幸せだと錯覚する」という、まさにこの時点における「ネオ」そのものを表しています。

 ネオたちを裏切るサイファーが、裏切る対価としてエージェントに要求する「こんなボロを着て、まずい飯を食べる生活はもうイヤだ。今の記憶を全部消して、マトリックスに戻りたい。」というシーンにおいては、 「何も考えなくていい、言われるがままに生きればいい、奴隷はラクだ」 という表現に転じられていますね。

 これは、ショーペンハウアの「盲目的意思」を示唆したものであり、「自由意志で選択したものと勘違いする」にも通じています。

 1作目のラストで、ネオが完全にマトリックスをコントロールし、ラストシーンで、空を飛んでいくところは、ニーチェの超人哲学「群れの修正を脱すれば、人は超人となれる」を、表現したシーンのようにも思われます。

 ニーチェが唱えた「超人とは、神が人に、人が神(=救世主)になったものである」の象徴的なシーンですね。

◆古代インド思想「ウパニシャッド」哲学の要素

 「マトリックス」には、西洋だけでなく、東洋の思想も取り入れられていますが、インドの宗教文書「ヴェーダ」最後を飾る哲学的な100を超える文献群「ウパニシャッド」です。

 「ウパニシャッド(著者不明)」は「奥義書」とも呼ばれ、宇宙の根源、人間の本質に迫る哲学思想ですね。

 「ウパニシャッド」の中心的思想は、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であると。

 「真理を知り、そのものになり、その力を獲得する。」
 「宇宙を支配する原理を知ることによって、その宇宙原理に自己が同化し、自在な境地に到達できる」と。

 そして、その「真理を知覚することによって輪廻の業、すなわち一切の苦悩を逃れ、解脱に達する」というもので、世界最古の深い哲学的思索とされています。

 「すべての生きとし生けるものは生と死を永遠に繰り返す。死んだら、またどこかで何かに生まれ変わってくるという「輪廻転生」の思想」ですね。

 「良い業」か「悪い業」が、どんな「業」を積んだかによって、次の生が決定され、生まれ変わると。

 ネオのような「The One(救世主)」=「アノマリー」の出現は、マトリックスが完成以降、6回目だと。

 インド人は「生きることは苦しいこと」と考えるので、2度と生まれ変わらずに済む「輪廻の輪」から抜け出せるのが「解脱」だと。

 まさに、ネオは(3部作を通して)少しずつ真理を知っていき、「The One」に成長していき、その力を獲得し、最終的に「同化」することで、境地に至り、解脱できると。

 そう考えると、3作目の「ネオとスミスの最終決戦」が、延々と続く、明らかに長過ぎる死闘のシーンは、まさしく「業を積む」(苦行)に見えてきます(笑)

 これだけの「業(苦行)を積まないと、真理にたどり着けないのか」という、真理を知ることの難しさ、尊さですね。(あの極端な「長尺」にも意味があるのねと(笑))

*それは観る側にも、ある意味「忍耐(業)」を強いられるようですよね(笑)

 その長い長い「業(苦行)」に末に、ついにネオは「戦いでは何も解決しない」ことを悟り、まったく抵抗しなくなります。

 スミスになすがままに攻撃され、最後にはスミスそのものに上書きコピー(同化)されてしまいます。

 しかし、それこそが「悪い業と良い業、あらゆる業の融合」であり、宇宙との同化、「解脱への道」であると。ついに「悟り」を開くと。

 敵同士に思えた人とマシンが、実は互いに、互いを必要としているように、ネオにとってのスミスも、いやおうなく、「融合する」ことが唯一の解決策であったと。

 スミスも、ネオを上書きコピーしたあと、たいして勝利の余韻に浸る間もなく、「しまった。そういうことだったか」という表情を見せ、一斉に光り出し、ネオもスミスのコピーもすべてが光となって砕け散り、起源(ソース)に戻ります。

 スミスと融合することで、ネオは「マトリックス」の全システムをリセットし、再起動し、「マトリックス」の世界を救ったと。

 そして、マシンとの交渉におけるトレードオフ条件として、同時に「マシンと人の戦争」を終わらせ、ザイオンの人々を救ったと。

 これが実は6回目の再起動であり、ラストシーンで、日の出を作り出し、「預言者」と一緒に見る少女が、7番目の「The One(救世主)」なのだと。

 この驚くべき深さ、何という哲学、これぞまさしく「マトリックスの形而上学」とも言うべき完成度ですね。

 これだけ哲学・思想的であるのに、「ハリウッド超大作の娯楽映画」として、ビジネス的にも大成功する昇華のしかた、あまりにも見事です。

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 初回限定生産のアルティメットエディションDVD-BOX(DVD 10枚組み)を買っちゃいました。

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 マトリックスのメイキングほどおもしろいものはないです。(本編と同じくらいおもしろいかも。)

 監督、スタッフたちの、これまでにない新しいジャンルの映画を創るんだ、映画の歴史を変えてやるんだという意気込みと熱意に圧倒されます。

 最初おろおろしてた俳優たちが、パンチをするなんていう、ちょ~基本動作から教え込まれ、少しずつ「完全無欠な完璧主義者」になっていくのが泣かせます。

 20テイクや30テイクはあたりまえ、監督がO.K出しても、キアヌはもう1回やらせてくれっていう凄まじさ。

 カメラスタッフは、監督の無茶なオーダーに対して、どうやったらこんな映像が創れるんだという新しい映像表現のために、試行錯誤しながら、ついには新しい撮影方法を発明しちゃうし。

 気の遠くなるようなCG制作、そんなのを次々に観せつけられると、自分もがんばろっかなと、元気が出てきたりして。

 やってる本人たちも、なんでそこまでやるんだろうと、自身にあきれ返りながらも、なおあえて究極の完成度を目指すと。

 それから、あらためて1作目を観ると、ネオの取調室のシーンに行く直前に、3作目で登場する映画の中のマトリックスの設計者「アーキティクト」(白髪と白ひげのおっさん)の部屋にあったモニターが登場するではないですか。

 たまたま気づいたけど、そんなの、3作目まで観なきゃ、わからねー。全然説明もないし、どれだけの人が気づくの? って感じ。そこまでしてんのね、この兄弟監督。

 気づいた人だけ楽しんでくれってことみたいね。心底まいります。降参です。

 Part2・3のメイキングでは、高速道路のシーン、メロビンジアンの古城のファイト、ザイオンでの最終決戦...。

 凄い映画を創り出したものです。金字塔ですね。

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