性善説と性悪説(更新版) [Essey]
以前に「性善説と性悪説について考える」という記事をアップして、「言葉としての誤用」にスポットを当てながら、「善悪の定義」を自分なりにまとめていました。
↓
https://virei.blog.ss-blog.jp/2017-09-01
この度、自分の中で「性善説と性悪説に対する考え方」が(その後の約4年間の成長で)新たに更新できましたので「更新版」としてまとめ直しました。
今回ふと、自分の中から新たに生み出された「既存の概念を破壊する新概念」は、「性善説も性悪説も、両方間違い」というものです。
それは、人間はもともと、初めから「善と悪を共存して生まれる」という視点です。
人は、生まれ落ちた瞬間から、常に「善と悪」をバランスして生きているのだと。
どちらが「先」でも「後」でもないのだと。
つまり、孟子と荀子への挑戦 =「反旗翻し」です(笑)
人は誰でも、実際の「現実の社会」において、常にあらゆる事象に対して「自分はどこまで善であるべきか、悪であるべきか」を考え、判断・決断し、選択しています。
「これ以上、悪であってはいけない」「これ以上、善人ぶるのはおかしい」と判断し、「ちょうど良いバランス」を探す意識が働きます。
それに対して「悪人」とは、悪方向に歯止めが利かなくなった者のことです。
自分の子どもでも親でも殺す、一般市民に発砲して殺戮しまくるなど、完全に「歯止めを失った」状態です。
同じく「善人」とは、善方向に歯止めが利かなくなった者のことであり、すぐに「悪人にも人権がある」「更生の機会を」「死刑反対」とか言い出す人たちです。
そうして軽量刑で許された者が再犯を犯して、そこでまた失われる被害・悲劇を、何も考えずに無視する人たちです。
あるいは「鯨は哺乳類だから捕鯨を禁止しろ」とか「動物を殺してまで食べなくて良いと言うベジタリアン」、さらにはビーガン(ヴィーガン)は「卵や乳製品も食べない」のだそうです。
環境活動家?、グレタ・トゥンベリさんの「ヒステリックな訴え」のしかた、主張の正当性だけを盾に「どんなひどいことでも言う」という姿勢にも、違和感を持つ人は少なくないと思います。
それらの意識・行動は、自分が「善人ぶる」ことで、利己的な優越感を求めているに過ぎないと思うわけです。
このような人たちは「善」方向に狂信し、「歯止め」を失ってしまっています。
極端な善と悪は、どちらも「バランスを失った偏執狂」に違いはなく、「善人ぶる」に偏った、バランスを欠いた、「悪」と同じレベルの偏狂であり、異常執着に過ぎないわけです。
偏執的に「善」を崇拝し、思考を硬直化させ、それ以外を一切認めなくなり、排斥まで始めます。
異常な「攻撃性」を持っている時点で、もはや(本来の、バランスの取れた)「善」ではないですね(笑)
そういった意味では「性善説」も「性悪説」も、そもそも「どちらかしかない状態で生まれる」と考えている時点で、大きな勘違いをしているという視点に気づいたわけです。
◆サッカーの例
大好きな「サッカーをしながら学べた」ことを例にすれば、試合で反則をすれば結局負けるし、善人ぶっていても試合に勝てません。
サッカーには「マリーシア」というブラジル発祥のポルトガル語である「サッカー用語」があります。
単語の直訳では「ずる賢い」という日本語になりますが、実際には「したたかさ」に近い意味合いを持ちます。
サッカーの試合中における「駆け引き」のことであり、「豊富な経験から得た知恵」という意味でもあります。
相手を騙すフェイント、相手を誘い込んでボールを奪う、いち早く「相手の弱点」を見つけ出して、そこを徹底的に狙うなどです。
「勝利」が間近に迫ったら、相手陣地でゆっくりボールを回す、相手選手をイライラさせて反則を誘う、セットプレイで相手の守備体系が整う前に始めてしまうなど多種多様であり、手法も多岐に渡ります。
強いチームほど、マリーシアに長けているし、弱いチームほど「何も考えずに」サッカーしているものです。
自分の中に「常に善悪が共存する」ことを明確に理解し、強い意志を持ってそれを制御し、適切に・的確に「使い分けられる、歯止めを利かせられる」人こそ、至高の存在なのだろうと。
至高の存在を目指すはずの「世界中のあらゆる宗教」は逆に「善人ぶる」に偏ってバランスを欠き、「悪」と同じレベルの偏狂に陥り、異常執着に過ぎないのではないかと。
偏狂に「善」に執着し、思考を硬直化させ、それ以外を一切認めなくなり、ほかの宗教の排斥を始め、ついには「宗教戦争」にまでエスカレートすると。
戦争するのが、ほかの宗教信者と殺し合うのが「善」なのかと。
ということで、次の言葉で完結できるという結論に達した次第です。
『世の中から「極端な善と悪」を一掃すれば、随分と良い社会になるだろう。』
by Virei