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映像の世紀バタフライエフェクト「2つの超大国 米中の百年」 [Essey]

■ NHK 映像の世紀バタフライエフェクト「2つの超大国 米中の百年」より
(一部、番組にはない補足情報の追加、視聴で得られた独自のインスパイアを含みます。)
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◆ 米中関係の源流

 中国は、1840年のアヘン戦争でイギリス に敗北して以降、列強の植民地状態にまで没落した。

 共同租界 となった上海では、中国人労働者は「苦力(クーリー)」と呼ばれて奴隷のように酷使され、賃金は「牛や馬よりも安い」とされた。

 また、日清戦争で日本に敗北すると台湾が日本に割譲され、こうして中国は、欧米列強と日本に欲しいままに収奪された。

 アメリカは、中国に宣教師らを送り込み、ロックフェラー財団は「発展の遅れた中国を助けるのは神から与えられた使命である」とする思想「マニフェスト・デスティニー」を喧伝して、病院や学校を設立した。

 それらの一環で、1911年に設立された「清華学堂」は、後の「清華大学」となり、民主主義を植え付けることで「親米派」人材を育成する「裏の目的」として活用された。

 19世紀末期には、アメリカのゴールドラッシュが36万人の中国人を呼び寄せ、サンフランシスコに「チャイナタウン」が形成された。

 奴隷制度 が廃止されたばかりのアメリカにおいて、中国人たちは「大陸横断鉄道の敷設」といった重労働に「低賃金」で従事させられる。

 大陸横断鉄道は、ロックフェラー、モルガン家(J・P・モルガン商会)などが出資して建築され、鉄道王ハリマンを生み出した。

◆ 親米勢力の台頭

 1937年(1945年まで)に日中戦争 が起きると、中華民国の蒋介石は「日本に勝つには、アメリカの支援が不可欠」と訴え、パンダを「友好の証」としてアメリカに送った。

 そして「日本軍が中国から撤退するまで、日本製品をボイコットしよう」と中華国民を鼓舞した。

 アメリカでは「かわいいパンダ」が人気を博し、友好ムードを醸成することに成功する。

 アメリカ国内では「パンダがいる中国を侵略する日本を許すまじ」という世論が形成される。

 さらに、戦前には「アメリカとは戦ってはいけない」と主張していた 山本五十六海軍大将が「渡米」を契機に米国側に利用され、突如「連合艦隊司令長官」に就任すると「真珠湾攻撃」を主張し、実行する。

 アメリカは「暗号傍受」で事前に知っていたにも関わらず、真珠湾奇襲が起きるのを待ち、これをもってアメリカ国民をたきつけ、世論を醸成し、日本に対して宣戦布告する。

 次いで、日中戦争支援として、中国に巨額の軍事援助を行い、中国国内の日本軍掃討作戦を開始した。

◆ 戦後の中国

 第二次世界大戦 が集結した4年後の1949年、米中の友好関係を一変させる出来事「中華人民共和国の成立」が起きる。

 アメリカ国内では、共産主義に対する恐怖が一気に高まり、「赤狩り」が行われ、その矛先はアメリカに住む中国人にも向けられた。

 一気に「米中対立」が高まると、代理戦争として朝鮮半島が選ばれ、朝鮮戦争が勃発する。

 中国が支援する北朝鮮 に膨大な「中国の義勇軍」が投入され、アメリカは「国連軍」を組織して韓国を支援し、間接的に戦火を交えた。

 日本は、アメリカに「無条件降伏」して属国となり、アメリカの「前線基地」として利用され、軍事特需に沸いた。

 敗戦で灰燼と期した日本が一気に復興してしまうほど、「戦争は儲かるもの」であり、これを巧みに操る「死の商人」たちは「あまりにも儲かる」ので、いつまでも「戦争をやめられない」のだ。

 各国に莫大な戦費を貸し付け、赤字国債を発行させて巨額の利子を取り、その返済に税金を増税させ、何も知らない民衆から搾取し続ける。

◆ 中国の文化大革命

 毛沢東の「造反有理」のスローガンの下、紅衛兵と名乗る若者たちは旧来の文化を破壊し、「反革命分子」とされた人々を暴行して殺害した。

 文化大革命の暴力と糾弾は、北京に暮らしていた当時13歳の少年「習仲勲の息子・習近平」にまで及んだ。

 習近平の父「習仲勲」は、それまで政府の要職に就いていたが「反革命分子」とされて失脚し、その息子「習近平」も4回の投獄と度重なる拷問を受けた。

 さらには、都市部の若者を農村部に移住させる「下放」の対象となり、延安の農村へと送り込まれる。

 ここでも過酷な労働を経験することになった習近平だが、1974年には11度目の申請でようやく共産党に入党し、翌年には模範的な農民として清華大学に「推薦入学する制度」を利用して入学することに成功する。

◆ 融和外交に一転

 習近平の大学進学と同じ頃、中ソ対立が深まる中でアメリカは冷戦を有利に進めるべく中国との接近を図った。

 まさに「敵の敵は味方」として、1972年にはニクソン大統領の「訪中」が実現する。

 この会談でアメリカは「台湾は中国の一部という主張を認識している」とする共同声明を発表した。

 その後も融和外交は継続し、1979年には米中の国交が正常化し、鄧小平は中国経済 を立て直すために「改革開放路線」を打ち出して西側企業に門戸を開いた。

 莫大な人口を抱える中国は、西側企業にとって格好の市場となり、多くの企業が進出した。

 アメリカは、中国でパソコンを売りまくり、マクドナルドが進出して「ハンバーガーとコーラ」を売りまくり、欧米ブランドは西側ファッションを売りまくった。

 アメリカのライフスタイルに侵略され、民主主義と自由主義が喧伝され、中華の若者たちが洗脳されていった。

 改革開放路線が打ち出されてから10年後の1989年5月。天安門広場は政治の民主化を求める10万人の若者たちで埋め尽くされていた。

 だが、習近平と共産党指導部にとって、その光景はかつての苦い記憶「文化大革命」を想起させるものに他ならず、学生たちの民主運動は人民解放軍によって蹂躙され「天安門事件」となった。

 アメリカの言う「民主化」とは、実はアメリカによる「民衆の奴隷化」なのだ。

 実は、(気づかずに)アメリカのために働き、アメリカ製品を買い、アメリカのために搾取される。それは、今の日本も同じである。

◆ 米中の対立へ

 アメリカは一転して、今度は「台湾総統・李登輝」を訪米させる。

 中国は「中国からの独立派」である李登輝の訪米を受け、台湾海峡で「ミサイル演習」を実施して「アメリカが台湾に介入すればロサンゼルスを破壊する」と警告する。

 アメリカも、ベトナム戦争以来最大となる戦力を台湾海峡に差し向けて威嚇した。

 当時、福建省の中堅幹部としてこの睨み合いを目にした習近平は、軍事力でアメリカに大きく劣る中国の実情に大きな危機感を抱く。

 これを契機に軍部との繋がりを強め、党内で存在感を増していった習近平は2013年に国家主席に就任する。

 習近平は、国家主席就任演説で「中国人民はいかなる外部勢力による抑圧や奴隷扱いを許さない」と宣言した。
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ロシア史「ロシアの源流」から現代までの変遷 [Essey]

■ ロシア史「NHK BS「ロシアの源流」」より

(一部、番組にはない補足情報の追加、視聴で得られた独自のインスパイアを含みます。)

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 ロシア は今でこそ大国ですが、もともとはヨーロッパの辺境に位置する弱小国で、数々の侵略を受け、蹂躙されてきた歴史があります。

 歴史 から、源流からのロシアの変遷を見ていきます。

◆ ロシアの源流
 9世紀(882年)、ロシアの源流となる「キーウ公国」が建国されます。

 この時は、現在のウクライナの首都キーウからモスクワまでが領土という小国でした。

 1223年、チンギス・ハーンのモンゴル帝国が襲来し、モンゴル軍に全領土を占領され、モンゴル帝国に吸収合併されます。

 モンゴル帝国の支配は、その後250年も続きました。

 ロシアの中心となるスラブ民族は、現在のルーマニアのカルパチア山脈周辺を原住地とし、中央ヨーロッパや東ヨーロッパに居住する農業民族でした。

 「スラブ」という言葉はロシア語では「弱い」という意味で、「奴隷」を意味するスレイブの語源になったと考えられています。

 モンゴルの庇護下で、モンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたことで、最高位に就任できたウラジーミル大公は、最終的にモスクワ大公と呼ばれるようになります。

 1533年からイワン4世がモスクワ大公に即位しましたが、彼にはモンゴル王朝の血も入っています。

◆ 動乱の時代へ

 15世紀の終わりに、衰退したモンゴル帝国の支配からようやく独立し、ユーラシア大陸の北限と東側の広大な真空地帯に版図を拡大していきます。

 ロシアの国境が不明瞭なのは、地理的な境界が少ないことが起因しています。

 例えば、スイスであれば、南のイタリアとの国境近くにアルプス山脈があり、西側のフランスとの国境にはジュラ山脈とレマン湖があり、天然の要害となっています。

 スイスとドイツとの国境は、西側はライン川によって隔てられ、東側はボーデン湖が国境となっています。

 ドイツとフランスの国境には、大河「ライン川」が流れて「自然国境」となっています。

 ロシアの場合は、モンゴル高原東部のアムール川が、中国との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点から生じていて、中流部も中国黒竜江省とロシア極東地方との間の境界となっているぐらいです。

 そのほかは、国境を分ける山脈等もなく「地続き」であることが、国境線を難しくしています。

◆ 動乱時代を経てロシア帝国へ

 1605年、「ロシアの動乱時代」と呼ばれる無政府状態にあったモスクワに、ポーランド・リトアニア共和国が介入し「ロシア・ポーランド戦争」が開始されます。

 これもロシアが敗れて、モスクワをポーランド軍に占領されます。

 6年後の1611年、モスクワ解放を目指す国民軍が結成され、激戦の末にポーランド軍を追放することに成功し、ようやくモスクワが解放されます。

 モスクワ解放後、ロマノフ家のミハイル・ロマノフがツァーリ継承者(皇帝という意味)に指定され、1613年にロマノフ王朝が誕生します。

 1682年、ピョートル1世がロシア皇帝に即位し、ロシア帝国と呼ばれるようになります。

 1762年、エカテリーナ2世はクーデターによって、夫から皇帝の地位を奪って女帝として即位し、40年弱の治世を治めます。

 ドイツの下級貴族からロシアに嫁いだエカテリーナは、ボルガ川中流流域にドイツの農民を移住させて先進農業技術を取り入れたり、周辺国との戦争に勝ったりして、国力を高めていきます。

 美術品の収集家としても有名だったエカテリーナは、エルミタージュ美術館を創設し、19世紀半ばには一般市民にも公開されました。

 エカテリーナ女帝は、米国の独立戦争(1775年~1783年)の際に武装中立同盟を提唱し、フランスとともに英国を国際的に孤立させることで米国の独立を支援します。

 アメリカの南北戦争の際、英国が独立以降の経緯や奴隷貿易の関係から南部を支援したのに対し、アレクサンドル2世のロシアは艦隊を米国沿岸に派遣して英国の介入を阻止しました。

 この直前、ロシアはオスマン帝国と同盟した英仏によってクリミアで敗戦し、屈辱的な条約を結ばざるを得なくなります。

 敗戦に伴う莫大な戦費の支払いに迫られ、ロシアは維持費のかかりすぎるアラスカを1867年に、友好国であるアメリカに売却しました。

 売却価格は当時のお金で720万USドルで、現在の価値では1億2千300万USドルです。

◆ ナポレオン軍の侵攻と日露戦争

 1803年、ヨーロッパ征服に乗り出したフランスのナポレオンは、ロシアにも侵攻し、モスクワを占領します。

 しかし、ロシア軍がモスクワからの撤退時に火を放ち、モスクワが焦土と化したため、兵站の現地調達ができなくなり、冬の寒さを凌げる家屋もなく、冬将軍(寒さと飢え)によって撤退を余儀なくされます。

 1881年から84年にはポグロム(ユダヤ人に対する集団的迫害行為)が起こり、1903年からはユダヤ人の海外脱出が増えていきました。

 1904年、ロシアの南下政策によって、満州の支配権をめぐって日露戦争が勃発し、中国大陸が戦場となりました。

 日露戦争の資金がなかった日本政府は、戦費調達のためにニューヨークへ派遣された高橋是清が、ロンドンでHSBCのロンドン支部長であったキャメロン(イギリスのキャメロン元首相の高祖父)を中心とする金融団から、500万ポンド(1億円)の融資を受けます。

 さらに、夕食会で高橋の隣に座ったニューヨークのユダヤ系のクーン・ローブ商会代表のジェイコブ・シフから、500万ポンドの融資を受け、戦争期間中に総額2億円を貸し付けられます。

 当時としては、巨額の戦費を借金したことで、大量の兵器を購入し、日本に有利な条件にて、アメリカを介したポーツマス条約の締結でロシアと講和します。

◆ 世界大戦

 1914年、サラエボ事件に端を発した第一次世界大戦が勃発し、ロシアは連合国側について参戦するも戦果は得られず、長引く戦争による不況で国民の不満が高まりました。

 1917年 2月、労働者による大規模なストライキ(2月革命)の発生し、大量の兵士も革命側に合流したことで制御が利かなくなり、ニコライ2世が退位に追い込まれます。

 こうして、304年続いたロマノフ王朝が終焉して、労働者・農民・兵士からなる新政府ソビエトが設立され、世界初の社会主義国家ソビエト共和国となりました。

 1922年、10月革命を皮切りとして、革命派の赤軍と反革命派の白軍による内戦が勃発(ロシア内戦)し、赤軍の勝利によってソビエト共和国を盟主とするソビエト連邦が成立します。

 1939年、それまで水と油とされたナチス・ドイツと「独ソ不可侵条約」を締結しますが、1941年にはドイツが一方的に条約を破棄して侵攻し、連合国側として第二次世界大戦に参戦します。

 1945年8月8日、ヤルタ会談における密約に基づき、日ソ中立条約(41年締結)を破棄して日本に宣戦布告し、千島列島、南樺太、満州に侵攻します。

 1945年9月2日、日本も降伏して第二次世界大戦が終結し、戦勝国となったソ連は、敗戦国から多くの領土を獲得します。

 1979年、アフガニスタンが反共産武装勢力の手に落ちたことを受け、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、戦いは10年にも及んで、1万4000人以上ものソ連兵が戦死しながら、最終的に撤退しました。

 2012年、ウラジーミル・プーチンが大統領に再就任すると、2014年にクリミアに侵攻して一方的に併合、2022年にはウクライナに侵攻し、1年以上経った今も戦争が続いています。

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