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性善説と性悪説について考える [Essey]

 とても誤用されやすい「性善説」と「性悪説」について考えてみた、です。

1.性善説と性悪説とは

 孟子が唱えた「性善説」は、「人間は、善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こる」という儒学の人間観に基づく説ですね。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、完全に無垢な存在であり、その汚れなき子どもが後天的に、いろいろな悪を知っていくという。

 つまり、人は本来「善」の存在でありながら、あとから悪行も身に着けていくと。

 逆に、荀子が唱えた「性悪説」は、「人間の本性は利己的欲望であり、善の行為は後天的習得によってのみ可能」という性善説の逆説として提唱されました。

 あらゆる動物は、自分や自分たちの「種の保存」だけを考えるのが「動物的本能」であり、そのためには本来、利己行動しかとらないものだと。

 そのため、無邪気な子どもの方がより残酷であり、善悪の判断がつかないまま、利己行動しかとらないのだと。

 それはより「動物的本能」に基づく行動なのだから、当たり前なのだと。

 その後成長して、さまざまなことを学んでいく中で、物事をわきまえられるようになると。

 人は本来「本能的に利己的存在」であり、あとから「善」を知ることで、善行も行いうるという説ですね。

 物心つくまでは、「自己保存」のみであったのに、後天的な学びによって、他人を助けたり、自己犠牲をはらうといった「利他行動」をとれるようになると。

 ということで結局、「人の善悪」について、どちらを先天的に持とうと、どちらをあとから知ろうと、「人は善行も悪行も行いうる」というのは一緒ですね(笑)

 本来の意味は、性善説と性悪説は「後先の問題に過ぎない」のに、それを大きく誤用しているのをよくみかけます(笑)

 どっちの説を採用しても「人は善であり、悪でもある」わけで、人的マネジメント論としては、「善行為に対する褒美、報償」と「悪行為に対する懲罰、防止措置」が、必ず「両方必要」ということですね。

 それが、人間の根源的「本質」であると。

2.善と悪とは

 そもそも「善悪の定義」とは、何でしょうか。

 物事の善悪は、あくまで人間が作り上げたもので、普遍的な善悪などないという指摘もあります。

 その時々の人の定義に左右されない、普遍的な「善悪の定義」がないのに、何が善で、何が悪かを決めようがないと。

 あるいは、あらゆる動物の中で、人間だけが「自分を犠牲にして、他者を助ける」ことができ、これこそ「善」であるという主張があります。

 このような利他行動は、咄嗟の場合に行われるため、完全なる「善の本能」に根差しているのではないかという指摘です。

 しかし、自分を犠牲にして他者を助けるために、別の他者を害するという矛盾が発生する場合もあります。

 例えば、自分の子どもを守るために、暴漢と差し違えた場合などです。
 自分の子どもは助かったでしょうが、相手は刺し殺されても構わないのかという矛盾ですね。

 そのような「争うこと自体が悪」であり、「調和を保つことこそ善」というのも絶対的ではなく、時と場合によります。

 同じ種で、殺し合うのも、人間の道徳的規範では悪とされているに過ぎず、「自然の摂理」という観点では、それが善か悪かは誰にもわからないという指摘もあります。

 増え過ぎた「種の整理」(人口爆発によるエネルギーや食糧の問題)かもしれないし、強者を残し、弱者を排除する「種の保存」的本能なのかもしれません。

 このように「善と悪」は、裏表でもあり、両輪でもあり、相対的なものでもあります。

 時と場合によって、「誰かのための善は、誰かにとって悪」であったり、その逆だったりもします。

 それらの事象自体には本来、善も悪もないということになります。

3.ニーチェの考察

 ニーチェは、著書『善悪の彼岸』の中で、人々が、盲目的に正しいと信じてきた道徳感、キリスト教を初めとしたあらゆる宗教が「善」としてきた道徳を、世界で初めて完全否定しました。

 キリスト教を中心とする、伝統的道徳における善悪の規準をひっくり返し、善悪の観念を超えた無垢な人間像「Unschuld」を追求し、新たな「生の肯定と結びつく」道徳を樹立しようとしました。

 ニーチェは、続く著作『道徳の系譜』で、序言と3つの論文構成により、人々のキリスト教的な道徳上の「先入感の転覆」を目指しました。

 ニーチェの著作の中でも、最も直接的な叙述が展開され、確固たる明敏さと力強さを備えた代表作とされています。

 ニーチェは、それまで「善悪」とされてきた概念を、単なる「信仰」「こうあって欲しいという願望に過ぎない」と一刀両断します。

 私たちは善悪の基準というものを持っていないし、自分の損得や欲得で判断しているに過ぎず、自分に都合のいいものが善で、都合の悪いものは悪とみなしているに過ぎないと。

 宗教的な善悪や社会の伝統的な善悪といったものは、それが本当に正しいのかどうかは誰にもわからないし、何が正しくて、何が正しくないかは、時代や環境によってどうにでも変わってしまうと。

 ニーチェは、当時の世間の常識、善悪の基準とされていたキリスト教的な道徳がいかに薄っぺらなものであるかを見破り、『善悪の彼岸』で徹底的な批判を展開します。

 「善悪の彼岸」とは、善悪の判断の向こう側、つまり「善悪を超えた領域」という意味となっています。

 ニーチェは、例えば、愛する人を守るために嘘をつくことも、愛しいわが子を飢えさせないために食べ物を盗むことも、「(薄っぺらな)善悪の判断を超える行為」としました。

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 「力の強い者と力の弱い者が存在し、力の強い者が弱い者を支配し、侵略や搾取をする、力の弱い者はそれに従わざるを得ない。」

 「でも人間はそれが悔しいから、心の中で、強者が力をふるうことを悪とし、自分が力を振るわないことを善と捉え返して、道徳的優位に立とうする。」

 「弱者の生み出す道徳は、ニヒリズムを含んだ衰退の徴候だ。」

 「道徳的現象なるものは存在しない。あるのはただ、現象の道徳的解釈だけである。」

by フリードリヒ・ニーチェ
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