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NHK BS『最後の講義』福岡伸一 博士 [Essey]

NHK BS『最後の講義』福岡伸一 博士
 人生の集大成としての講義シリーズ、生物学 編。

<受講メモ>
1.人体は個体ではなく、流体である

(1) 食物とは
 人は毎日ご飯を食べ、ご飯は体内で燃焼され、熱エネルギーに変換され、体温を生み出し、運動エネルギーにも変換される。

 同時に、体の細胞に溶け込んで、体の一部となって置き換わっている。

 髪の毛やツメだけでなく、体の「あらゆる細胞」が「食べ物の細胞」と置き換わっている。

 これを自動車で例えれば、「燃焼させるためのガソリン」のうちの「ある割合」が、ハンドルや座席やタイヤの「一部に溶け込んで置き換わっている」ということになる。

 食べ物はすべて、「体内で燃焼されるか、体内の細胞に置き換わるか」のどちらかなので、排泄物というのは「置き換わった細胞の塊」なのである。

 つまり、1年前の自分と今日の自分では、物質レベルで言えば「まったくの別人」となっている。

 よって「食べ物が悪い」と、劣化した細胞と置き換わってしまい、寿命を縮めることになる。

 例えば、狂牛病というのは、牛に「肉骨粉」という動物の死骸から作った飼料を与え続け、本来「草食」だった牛を強制的に「肉食」に変えさせ、羊のスクレイピー病の死骸を牛が取り込むことで発生した。

 同じく、狂牛病の牛を食べた人間が、この病を取り込み、ヤコブ病となった。

(2) 記憶とは
 人は、1年でまったくの別人になってしまうのに「なぜ記憶が失われないか」と言うと、すべての記憶は「神経細胞・ニューロンの回路網」として記憶され、個々の細胞に埋め込まれているわけではないからだ。

 ニューロン回路網の「電気が流れた場所」が記憶として蘇るしくみなので、あらゆる記憶は消えないし、すべての記憶は思い出せるようになっている。

 ただし、常に脳に情報が溢れかえっていると混乱するので、今「必要ではない記憶」を思い出さないようにする脳内物質が分泌されている。

(3) 動的平衡
 動的というのは「常に動いている」、平衡はバランスということであり、絶え間のない流れの中で、常に「合成と分解」がなんとかバランスをとっているのが生命である。

 生命は「動的平衡」を保っているからこそ、ある一部が欠けてもそれを代替するものが現れたり、機能を保全し合って、新しいバランスを生み出している。

 生命は、自分の細胞が老朽化する前に、自ら積極的に「分解」し、合成し直すことで、長い時間「秩序」を守り続けている。

 老化というのは、分解と合成を繰り返していく中で、わずかに酸化物や老廃物が残留し、それが微量に蓄積していくことで起きる現象である。

2.脳死と脳始の本質とは
 人の「死とは何か」を定義する時、以前は「心臓停止、呼吸停止、反射停止」の3つによって「死」と判断されていた。

 これに対して「脳死」というのは、まだ「心臓や呼吸器官」が動いていても「人の死」と判断するという、新しい定義である。

 ではなぜ、「脳死」という新たな定義が生み出されたかと言うと、これは「医療の発展」でもなんでもなくて、そこに産業が発生したからである。

 脳死という新たな定義による「産業 = 臓器移植」は、莫大な利益を上げる一大産業になっている。

 同じく「脳始」というのも、「受精卵の誕生」が人の始まりではなく、「脳が活動を始めた時」と新たに定義することで、胎児の脳が機能する前であれば、臓器も細胞も「転用できる」という「新産業」のための定義である。

 この「新定義」によって、世界各地で実際に「胎児の細胞を使って、新たな再生細胞を作る」など、単なる「ツール」として使用されている。

3.理系と文系を分けるのは無意味
 2011年、福岡博士は、文系の教授となり、理系の研究室を閉鎖した。

 理系の「ミクロな、機械論的なアプローチ」を止め、概念的、思想体系的アプローチを行うためだ。

 また、そもそも「理系・文系」という垣根を越えたアプローチが必要であり、理系と文系を分けるのは「まったくの無意味」と考えている。

 よって、今の大学のあり方にも疑問を感じている。

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