SSブログ

「自由」について考えてみる [Essey]

◆「自由」とは

 「自由」とは、人間が「個人として独立した状態」のことであり、真の「自由」を実現するためには、(集団から)「孤立する勇気」が必要になります。

 その逆の「服従」とは、「従属(隷属)」を求める「依存体質」に基づくものであり、自己を肯定しきれない「不安な人」が支えとするのが「集団への帰属」です。

 あえて、自ら(自由を放棄し)「個」を消してでも、集団に帰属することで、(潜在的なものも含め)安心しようとする意識です。

◆「集団への帰属」を欲し、比較ばかりする意識

 依存思考の人は、「集団への帰属」が最終目標であるため、帰属を完了すると、「他の集団との優劣」を気にかけるようになっていきます。

 自分の家と隣の家、自分の学校(会社)とほかの学校(会社)、自分の住む町、県、国、と帰属する集団の優劣ばかり、気にするようになります。

 真に「自由」な人は、「個として独立」しているので、集団同士の優劣など、そもそも興味がありませんし、どちらだろうと意に介しません。

 学校も会社も関係ない、どこに住もうと関係ない、どこの国だろうと関係ない、という意識こそ、「自由」であることの証です。

 どんな集団(国でも民族でも)でも構わないので、より「どっちの集団(国)が優れているか」など、どうでも良いこと、と認識しています。

 「真に自由な人」(集団への従属から自由な人)にとっては、日本だろうと、韓国だろうと、中国だろうと、欧米だろうと、どうでもよいのです。

 真に「自由」な人は、いつでも、どんな「集団」からでも「自由」に離脱できるし、孤立への不安などないし、怖がったりしないし、自由な意志を持って、躊躇なく行動できます。

 集団への「帰属」とは異なる、参加・離脱が自由な「緩やかなグループ」を形成することだってできます。

 そこに、どんな国の人、民族が参加していようと、まったく意に介しません。

◆「集団」ではなく「個」であることが「自由」の源

 あくまで「集団」ではなく「個」なので、その人自身を、1対1で、評価するのです。

 その人が「人としてどのレベルにあるのか(成長できているのか)」という視点であり、「いい年をした中高年でも、精神性は小学生レベル」なのか、10代であっても「とても高い精神性を持つ」のか、という点です。

 例えば、「他人に危害を加えるような言葉をサイトに書き込み、威力業務妨害で逮捕されるような人」は、年齢が何歳だろうと精神性は「幼稚園・小学校レベル」でしょうし、イチローやキングカズなどは、10代から「社会人どころか、真のプロフェッショナルと言えるほどの精神レベル」に達していたわけでしょう。

 人は成長しようと望み、そう努力し続ければ、生涯にわたって、成長・向上できるわけですが、それを自ら放棄していれば、まったく成長のないまま、一生「幼稚園・小学校レベル」で終わります。

◆「集団へ従属」することで「個」としての弱さから逃れる意識

 「集団への従属」とは、自分への劣等感、無力感から、自分自身のやりたいことに挑戦しようとはせず、外側の秩序、集団に自ら服従しようして、成長を放棄しようとする行為と言えます。

 自ら「服従(集団への帰属)を求める」のは、孤立や孤独といった「自由の重荷」から逃れ、自分よりも「圧倒的に強いと感じる人物」や「力」に服従することで、「自分をなくそう」とする意識から生まれてきます。

 「服従」することで、自分を殺し、自分から逃れ、自己を取り除くことで、安定感を得ようと願うわけです。

 (潜在的も含め)「服従を求める者」は、本当は「依存」であるのに、愛や忠誠と誤認し、「劣等感」を自分への適切な(謙虚な)評価とし、「悩み」は環境のせいだと、自分自身を錯誤させていきます。

◆「悩み」が生じない精神属性

 「服従、従属(隷属)、依存、不安」から解放された、真に「自由」な人には、そもそも「悩み」など存在しません。

 そこにあるのは「挑戦」と「何かを成し遂げようとする過程」で生じる「試行錯誤」であって、「悩み」が発生する「土壌」をそもそも持ちあわせていません。

 集団への「帰属」意識がないので、集団や組織を頼りにしていないため、環境(社会)のせいでも、学校(会社)のせいでも、国(民族)のせいでも、集団内の人間関係のせいでもないと考え、「悩む」ための「素地」自体が、1つもないのです。

◆自分への不安

 自分自身が嫌いな人や、自分自身を卑下している人は、常に自分に対する不安を抱いています。

 「利己主義」とは、自己愛の欠如(自分を愛することができないこと)に根ざしたものであり、利己的な人間は、結局「他人も、自分も、どちらも愛していない」ということになります。

 「利己的な人間」とは、自分を愛しているのではなく、他人を信じられずに不安を抱き、自分よりも多くのものを持っている人間に羨望を持ち、実は自己嫌悪を膨らませていくのです。

 「野心」とは、1人で(何かに依存せずに)生きていくという「強さ」とは逆の、自分の「弱さ」から現れる心です。

 自分自身に「真の強さ」が欠けているにも関わらず、(集団内だけにおける)2義的な強さを獲得しようとする絶望的な試みでもあります。

 「他人を支配しようとする」願望は、「服従者を欲する心」「服従者を頼りにした、自分の孤独に耐えられない心」の弱さ、「自分自身の弱点から逃れ出ること」から現れるものです。

 真に「自由」な人、あるべき「能力」を持つ者は、自己の潜在的能力を実現できる程度に応じて生きていけるため、他人を支配する必要もないし、「(集団内の)権力に対するあくなき追求」といったことをする必要もないのです。

 「鬱」とは、自己の無力感、自己否定、自己卑下、自己の罪悪性に基づく、「自分自身に向けられた敵意」から生まれてくるものです。

◆愛と自由

 「愛」とは、単なる「好み」ではなく、対象への「幸福・成長・自由」を目指す、積極的な追求から生まてくるものです。

 「自分を愛する」ことができない人は、他人を愛することもできませんし、「他人を愛することができる」ということは、自分を愛していることを示しています。

 「愛」は、自分を含むすべての人間や事物に向けられるものなので、「愛の対象となるのが、ただ1人の人間」などということはあり得ません。

 「ただ1人の人間に向けられる愛」と錯誤している感情は、愛ではなく「執着」です。

 「1人でいることができない不安」から相手を求める愛は、相手に対する「依存」なので、相手に依存したいのに、できないと不満を感じ、相手にその不満をぶつけようとします。

 あるいは、その相手との「依存状態、依存環境」が安定してくると、もっと大きな「自分を依存させてくれる対象」、相手を探し始めます。

 その「より大きな依存を求める感情」が、いわゆる「浮気」という感情を生み出します。

 真に「自由」な人は、依存するための相手を必要としていないので、相手を束縛しないし、自由だし、そういう不満も感じないので、不満をぶつけることもないし、より大きな依存相手を探そうともしないし、常に「開放された自由な精神性」で、安定していられます。

 「集団から孤立でき、何にも依存しないで(1人で)いられる能力」こそ、真に「愛する」能力の条件であり、自分自身を信じている者だけが、他人に対しても、真に誠実になれるということになります。

『愛は、人間の実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えである。』
by エーリッヒ・フロム


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。