“ビジネス的観点” からの「真理」を考えてみる [Marketing]
最近、(特にネットで)、いろんな人が、それぞれに、好き勝手なことを言うのを見かける機会が増えました。
その「どんな意見であっても、拡散される可能性がある」という状況は、まさに「ソーデャルメディア社会」ならでは、ですね。
個人が「情報発信者」、場合によっては「メディア」にもなり得る、という象徴的な事象です。
たくさんの「賛同」を得ることもあれば、「炎上」することもあり、それぞれ、ひきこもごもの影響、結果が生じているのを、みなさんもよく見かけると思います。
そのような「混沌」とした、意見・批判・感想・賛成・反対の渦巻く中、それらの反響に、右往左往してしまっている人たちも、多く見かけるようになりました。
なぜ「それらの意見」の度に、自分が「右往左往してしまうのか」と言えば、自分の中に、その事象・思考に対する「明確な軸がない」からですね。なので、人の意見や指摘がある度に、右往左往してしまいます。
では、人の意見や指摘に、右往左往しない、明確な、自分の「確信」というものは、どうしたら得られるのでしょうか。
自分の場合は、「真理を得る」ということで、それらに対応する術を見つけました。
その「軸」さえ持てれば、誰が何を、どう言おうと、揺らされたり、振り回されたりすることもなくなります。
「真理は必ず存在する」わけですし、「真理」の前には、何人たりとも抗うことはできないからです。
自分の中に、その「真理にもとづく確信」があれば、誰が、どんなことを、どのように言っていようと、まったく意に介さずにいられます。
人間は、いろいろな場面における「心の揺らぎ」によって苦しめられるものですが、この「真理」を、常に頭の中に置いておけば、揺らぐことのない「定義」を礎にさえしていれば、心が不安や悩みで揺らぐこともありません。
迷ったり、悩んだり、いつまでも「物事を決められない」ということもありません。
「心の揺らぎがなくなれば、苦しみもなくなる」とも言います。
自分は、自分をその状態に持っていきたい、と常に考えています。
それでは「真理」とは、なんでしょうか?
<真理【truth】>
「いつ、どんな時にも変わることのない、正しい物事の筋道、真実の道理」と、辞書にも載っています。
「定義が揺らぐことのない、普遍的な事象・思考」をわかりやすく分解すれば、
1.どれだけ時間が経過しても変わらない
2.誰にとっても、揺るぎない定義
3.いかなる場所・空間・次元によっても変わらない
事象、思考ですね。
100年経とうが、1000年経とうが、「真理」は「真理」のままであり、「定義」が簡単に揺らいでしまうようなものは「真理」とは呼ばない、ですね。
アリストテレスは「思考と存在が一致することが真理である」としました。
Aという実体が存在する時、「実体Aは存在する」という命題は真であり、「実体Aは存在しない」という命題は偽である。
逆に、存在しない実体Bについて、「実体Bは存在しない」という命題は真であり、「実体Bは存在する」という命題は偽である。
デカルトは、理性的な判断をするための「4つの規則」を提唱し、これに基づいて「明晰かつ判明だと判断されたものを真理と呼ぶ」としました。
デカルトは、たったこの4つの規則を守るだけで、どんなに難しく、どんなに遠い「真理」にも到達できる、としました。
<デカルトの4つの規則>
1.明らかに真実であると認められない限り、真実であると受け止めない。
そして注意深く、即断と偏見を避け、疑うことができないほど、明白に、はっきりと定義づけられて( clairment et distinctement)、自分の精神に現れてくるもの以外は、何物も判断に取り入れないこと。
2.吟味する問題を、できる限り多く、その問題を解決するために必要な数の小部分に分割すること。
3.もっとも単純で最も認識しやすいものから考察を始め、もっとも複雑で最も認識しにくいものに向かって、少しずつ段階を踏んで高めていくこと。
自然のものでも、順序を持たないものでも、順序を考えながら考察していくこと。
4.何1つ、見落とすことはなかったと確信できるほど、完全なディテールと、俯瞰からの、全般にわたる再点検を、あらゆるケースを考えて行うこと。
このように考えていくと、「真理かどうかを見極める」のは、実は簡単なことで、例えば、次のような「判断基準を(自分の中に)構築していけば良い」のだということがわかります。
1.すでに「明白な事実となっていること」を拠り所にする。
2.「明白な事実」となっていることに対する「異論」は、無視して良い。(どれだけ説得力があろうが、おもしろい説であろうが、キャッチーな極論であろうが、それらは「真理」ではない。)
3.「明白な事実」となっているものを拡げていく、新しい「真理かもしれないとも思われる新説」については、
(1) それまでの「事実」と矛盾するところがないか
(2) 細部にわたって完全なディテールが構成されていて、俯瞰から見た、全体的なロジック構成に、いかなる破綻もないか
といったことを「細分化」し、「順序立てて」考察していけば、いかなる「複雑で認識しにくいもの」であっても、それが「真理と言えるかどうか」という判断はできることになります。
「真理なきところに、聞くべき、何ものの価値もない。」by Virai
「真理はすべて、ひとたび発見されれば、たやすく理解される。問題はそれを発見するということにある。」by ガリレオ・ガリレイ
その「どんな意見であっても、拡散される可能性がある」という状況は、まさに「ソーデャルメディア社会」ならでは、ですね。
個人が「情報発信者」、場合によっては「メディア」にもなり得る、という象徴的な事象です。
たくさんの「賛同」を得ることもあれば、「炎上」することもあり、それぞれ、ひきこもごもの影響、結果が生じているのを、みなさんもよく見かけると思います。
そのような「混沌」とした、意見・批判・感想・賛成・反対の渦巻く中、それらの反響に、右往左往してしまっている人たちも、多く見かけるようになりました。
なぜ「それらの意見」の度に、自分が「右往左往してしまうのか」と言えば、自分の中に、その事象・思考に対する「明確な軸がない」からですね。なので、人の意見や指摘がある度に、右往左往してしまいます。
では、人の意見や指摘に、右往左往しない、明確な、自分の「確信」というものは、どうしたら得られるのでしょうか。
自分の場合は、「真理を得る」ということで、それらに対応する術を見つけました。
その「軸」さえ持てれば、誰が何を、どう言おうと、揺らされたり、振り回されたりすることもなくなります。
「真理は必ず存在する」わけですし、「真理」の前には、何人たりとも抗うことはできないからです。
自分の中に、その「真理にもとづく確信」があれば、誰が、どんなことを、どのように言っていようと、まったく意に介さずにいられます。
人間は、いろいろな場面における「心の揺らぎ」によって苦しめられるものですが、この「真理」を、常に頭の中に置いておけば、揺らぐことのない「定義」を礎にさえしていれば、心が不安や悩みで揺らぐこともありません。
迷ったり、悩んだり、いつまでも「物事を決められない」ということもありません。
「心の揺らぎがなくなれば、苦しみもなくなる」とも言います。
自分は、自分をその状態に持っていきたい、と常に考えています。
それでは「真理」とは、なんでしょうか?
<真理【truth】>
「いつ、どんな時にも変わることのない、正しい物事の筋道、真実の道理」と、辞書にも載っています。
「定義が揺らぐことのない、普遍的な事象・思考」をわかりやすく分解すれば、
1.どれだけ時間が経過しても変わらない
2.誰にとっても、揺るぎない定義
3.いかなる場所・空間・次元によっても変わらない
事象、思考ですね。
100年経とうが、1000年経とうが、「真理」は「真理」のままであり、「定義」が簡単に揺らいでしまうようなものは「真理」とは呼ばない、ですね。
アリストテレスは「思考と存在が一致することが真理である」としました。
Aという実体が存在する時、「実体Aは存在する」という命題は真であり、「実体Aは存在しない」という命題は偽である。
逆に、存在しない実体Bについて、「実体Bは存在しない」という命題は真であり、「実体Bは存在する」という命題は偽である。
デカルトは、理性的な判断をするための「4つの規則」を提唱し、これに基づいて「明晰かつ判明だと判断されたものを真理と呼ぶ」としました。
デカルトは、たったこの4つの規則を守るだけで、どんなに難しく、どんなに遠い「真理」にも到達できる、としました。
<デカルトの4つの規則>
1.明らかに真実であると認められない限り、真実であると受け止めない。
そして注意深く、即断と偏見を避け、疑うことができないほど、明白に、はっきりと定義づけられて( clairment et distinctement)、自分の精神に現れてくるもの以外は、何物も判断に取り入れないこと。
2.吟味する問題を、できる限り多く、その問題を解決するために必要な数の小部分に分割すること。
3.もっとも単純で最も認識しやすいものから考察を始め、もっとも複雑で最も認識しにくいものに向かって、少しずつ段階を踏んで高めていくこと。
自然のものでも、順序を持たないものでも、順序を考えながら考察していくこと。
4.何1つ、見落とすことはなかったと確信できるほど、完全なディテールと、俯瞰からの、全般にわたる再点検を、あらゆるケースを考えて行うこと。
このように考えていくと、「真理かどうかを見極める」のは、実は簡単なことで、例えば、次のような「判断基準を(自分の中に)構築していけば良い」のだということがわかります。
1.すでに「明白な事実となっていること」を拠り所にする。
2.「明白な事実」となっていることに対する「異論」は、無視して良い。(どれだけ説得力があろうが、おもしろい説であろうが、キャッチーな極論であろうが、それらは「真理」ではない。)
3.「明白な事実」となっているものを拡げていく、新しい「真理かもしれないとも思われる新説」については、
(1) それまでの「事実」と矛盾するところがないか
(2) 細部にわたって完全なディテールが構成されていて、俯瞰から見た、全体的なロジック構成に、いかなる破綻もないか
といったことを「細分化」し、「順序立てて」考察していけば、いかなる「複雑で認識しにくいもの」であっても、それが「真理と言えるかどうか」という判断はできることになります。
「真理なきところに、聞くべき、何ものの価値もない。」by Virai
「真理はすべて、ひとたび発見されれば、たやすく理解される。問題はそれを発見するということにある。」by ガリレオ・ガリレイ
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