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「幸せとは何か」を考えてみる [Essey]

 先日、たまたま、こういう記事を見かけました。

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『人が幸せを感じる4つのこと』
1 : 人に愛されること
2 : 人に褒められること
3 : 人の役にたつこと
4 : 人から必要にされること

『人を幸せにする方法』
1 : 人を愛すること
2 : 人を褒めること
3 : 人に感謝すること
4 : 人を必要とすること

自分が幸せに成りたかったら、人を幸せにしよう。
人を幸せにしようとすれば、自分が幸せになれます。
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 これを読んだ瞬間に「違和感」を感じました。それは違うだろうと。

 もちろん、上の記述のうち、「愛し、愛され」の「幸せ」はわかるに決まっていますが、「役に立つ、必要とされる」は、(少なくとも、自分にとっては)「たいして幸せなことではない」からです。

 (誰かの)「役に立つ」というのは、基本的に「組織論」です。
 (誰かに)「必要とされる」というのも「コミュニティ論」です。

 もちろん、組織も、コミュニティも大事です。でもそれが「自分にとっての幸せ」をくれるわけではありません。

 「幸せ」というのは、組織でもコミュニティでもなく、それ以上に「パーソナルなもの」だからです。

 「組織」が「個人」を上回って、「幸せを感じさせてくれる」ことなどありません。

 これまで社会における「製造業の発展」には、「毎日、地味な作業をコツコツと続ける人」が、大勢必要でした。

 なので、体制側から「個を犠牲にしてでも組織のために」こそ「美徳」という意識を、ずっと植え込まれてきました。

 その末路が「お国のために」なんていうスローガン、「個人の死よりも国が優先する」という考えがまかり通るような社会状況になってしまったわけです。

 でも違います、そんなことは、ちっとも「幸せ」じゃありません。

 「国が戦争に勝った」で、個人が「幸せ」を感じられるでしょうか?

 親兄弟、友人・知人が大勢「戦死」しても、「そんなことはどうでもいい、国が勝ったのだから、なんて幸せなことだろう」にはなり得ません。

 「役に立つ」とか「必要とされる」とかいうのは、もっともっと2次的、3次的な部分です。

 個人にとっての「幸せ」というのは、もっと「個人的なもの」なはずです。

 人と比べるものではないし、「人から見たらそうは見えないかもしれない」けど、自分自身は「幸せを感じている」というものなわけです。

 ではいったい、何が、個人にとっての「幸せ」なのでしょうか?

 自分がこれまで、最も納得した「幸せ論」は「マズローの欲求段階説」です。

 マズロー博士の言う「人間は、自己実現に向かって、絶えず成長する生き物である」に、まず同意します。

 人は、生まれながらに「成長欲求」を持ちます。

 なぜなら「成長」しないと、(あらゆる動物が)死んでしまうからです。

 もしも、生まれたまま、子どものまま、成長しなかったら、あらゆる「動物」が絶滅してしまいます。

 自力での「食料の確保」もできないし、非力なままで「敵」にも襲われ放題、反撃もままならず、無惨にやられてしまいます。

 よって「成長しなければならない」というのは「生を受けたもの」すべてが持つ、「生きるために必要な」最も根源的な欲求です。

 もはや「遺伝子レベル」で、生まれ、育ち、成長し、子孫を残し、次世代に生をつなぐ、という何よりも優先される欲求なわけです。

 そして、人間の場合には、マズロー博士の言う5段階の「基本的欲求」があります。

◆人間の基本的欲求を低次から高次の順に並べた5段階
1.生理的欲求(Physiological needs)食欲。排泄。性欲。睡眠。
2.安全の欲求(Safety needs)安全な暮らし。安全な環境。
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)愛し愛される。家族。
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)職業。社会で認められる。
5.自己実現の欲求(Self-actualization)自分らしい人生。

 これこそ、読んだ瞬間に「これだ」と納得できる人格形成理論でした。

 「動物」としての最も根源的な欲求から、成長過程、人格形成過程において、「より高次な次元にステップアップしていく」ことなんだと。

 もちろん、この欲求レベルの中に、「所属や愛や承認欲求」もあるわけですが、それらは、3段階・4段階のレベルに過ぎません。

 本来の「幸せ」を感じられるのは、最も高次な段階5のレベル「自己実現」なわけです。

 「個人」としての、創造性、価値感、美意識、至高経験などを通して、従来の時点から(確実に階段を登り続け)自分自身が「より高次のレベルに達する」ことへの喜び、「幸せ感」です。

 愛や恋の前に、組織への所属の前に、まず「生きなければならない」という、最も根源的な、遺伝子レベルの「使命感・欲求」に根ざした「成長欲求」です。

 本人が死んでしまったら「愛も、組織も、役に立つも、へったくれもない」という、最も根源的な「成長欲求」の最上位が「自己実現欲求」なわけです。

 これはもう「遺伝子レベル」で、全身から「幸福感」を感じる状態、と言っても過言ではないでしょう。

 人が本来持つ「欠乏欲求と存在欲求」を同時に満たし、上空から俯瞰するような認知感、あらゆる事象、現象を受け入れられる「ノーリミット感」を得られるといった「トランスパーソナル心理学」の源流になる理論ですね。

 その認知感、ノーリミット感があるからこそ、より深く人を愛せて、より組織にも貢献できるわけです。

 「役に立つ」とか「必要とされる」ことが「幸せ」ではないのです。自分自身の「心の問題」なのです。

 そして、マズロー博士は、さらにその上に「自我の壁をも超える(自我の対象範囲を自分を超えて広げられる)」レベルにまで達する「自己超越」のレベル6があるとしているわけですが、こればっかりは、自分にはまだまだ未達なので、良くわかりません(笑)

 ということで「幸せになりたいなら、自らを成長させよ」ということになりますね。

 人は「成長に応じて、幸せを感じられる」ということですね。

 例えば、生まれたばかりの赤ちゃんに「幸せかい?」と聞いても、わかるわけありません。

 そもそも「幸せ」という概念すら、持ち合わせていないのですから。

 同じく、簡単に「犯罪を犯す」ような人は「成長できていない」わけですから、「幸せ」を実感できるはずがないですね。(だから犯罪に走るのでしょうが)

 自分は「幸せになりたい」ので、これからも、もっともっと「成長し続けたい」です。

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