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「テイク・シェルター」ラストシーン 完全解説 [Movie]

「メメント」以来の「自分なりの解釈」をつい書きたくなる映画の登場です(笑)

 これも、すでに映画を観終わった方向けの思い切り踏み込んだ詳細解説なので、まだ観ていない方はご注意ください。



テイク・シェルター(Blu-ray)

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*ここからは「もう観た方を対象に」ということで、ストーリー、監督、俳優などについては省略します。

 なぜ「自分の解釈」を書きたくなるかと言えば、なんと言ってもあのラストです!
 いろいろな解釈ができるラストシーンなわけですが「自分は次のように解釈しました」というのを書きたくなったわけです(笑)

 これも、この人はこういう受け取り方をしたのね、ぐらいな感じでお願いします。(人それぞれの受け取り方があると思うんで、自分と違うからって反論しないでくださいね。違って良いのですから(^^ゞ)

 その「ラストシーン」を解釈する際に、まずその土台になる、この映画の全体的なコンセプトを考えてみたいと思います。
 「どんな映画を創りたかったのか」という点ですね。

 映画全体を俯瞰してみると、ヒッチコック的な、サイコサスペンスの映画が撮りたかったんだろうなというのは誰もが感じると思います。

 実際、ヒッチコックの「鳥」で出てきたような、人に対して攻撃的で、恐怖を感じる不気味な「黒い鳥の大群の来襲」が何度も描かれていて、ヒッチコックへのオマージュかなと思いました。

 あるいは「家族」という類似性では、キューブリックの「シャイニング」も、同じ「狂気を扱う」ジャンルなのかもしれません。

 そして、カーティスの母親が統合失調症を病んで入院し、母親発症時の年齢に近づいてきた自分も発病するのではないかという恐怖を抱いているという設定が、恐怖・ストレスの一因として描かれています。

 映画の最初の方に、会社の同僚と話していて、その同僚は「夫婦仲が悪く、3Pをした」という話をしたあとに、「おまえみたいに、普通が一番なんだ」と言われるような、平凡で実直な男の「ごく普通の家族」という設定です。

 以上の「全体的コンセプト」から勘案して、SF的な「予知能力」とか、ディザスター映画のような「世紀末的破滅」「大災害による人類滅亡」といった「非日常的な特殊な世界」を描く映画ではないということですね。

 あわせて、主人公も、SF的な「未来を予知する特殊能力者」といった設定ではないということですね。

 ごく普通のブルーワーカーが、ヒッチコックの「サイコ」のように、精神に変調をきたし、「心理的倒錯に陥っていく恐怖」を描く映画を創りたかった、ということですね。

 次に、このような「よく練られた映画」で、必ず「解釈の助け」になる「伏線」を考えてみたいと思います。

<現実にはあり得ない「嵐」の描写>
 「カーティスの悪夢」は、いつも映画の流れの中で唐突に始まり、カーティスが目覚めることで、鑑賞者は「ああ、このシーンは主人公の夢だったのか」と認識します。

*いつも悪夢は「前触れなく」スタートし、いきなり「目が覚める」ことで、鑑賞者は「夢であったことを知る」という方式で構成されています。
 そして、主人公の目が覚めたのだから「ここから先のシーンは、夢の続きではなく、現実の世界」と認識します。

 その「夢か現実か」を分けるのが、現実にはあり得ない、あの「色つきオイルの雨」と「それを浴びた人々が凶暴化する」という表現になっていますね。

 つまり、「色つきオイルの雨」や「凶暴化した人々」の登場によって、鑑賞者は「ああ、このシーンは現実ではない、カーティスの悪夢の中の話なのね」と認識します。

*ラストシーンを観るまで、なんで「雨が色つきオイルなの?」って、ずっと思ってました(笑)
 雨が「色つきオイル」であるわけがないし、そもそも雨を「色つきオイル」という設定にした意味が(それ以外には)ないんだもの(笑)

<悪夢の中に、妻(サマンサ)が出てくるシーン>
 あの「色つきオイルの雨」を浴びた妻と見つめ合い、キッチンの包丁がアップになった時、「あら、ついに悪夢の中とはいえ、妻にまで刺されて、目が覚めても、妻をも遠ざけるようになってしまうの?」と思いましたが、そうはなりませんでした。

 これは「カーティスの悪夢の中には、妻も娘も(その前の悪夢で車の中から暴漢に引きずり出されるシーン)登場する」ということを示す「ラストシーンへの伏線」なんだと解釈しました。
 かなりの長さがあった割には、ただ、見つめ合っただけで、刺されることもなく、ただそのまま目が覚めるというシーンでしたので。

 もちろん、ストーリー上、翌朝「妻に触られて恐怖を感じるシーン」や、その少し先のシーンで、妻から「私も怖がったでしょう? 夢に出てきたの?」というセリフもありますけど、すぐにそれらは解消されるので、意味合いとしては「ラストシーンへの伏線」の方に、より重きが置かれたシーンと思います。

<本当の嵐が過ぎ去ったあとのシーン>
 本当の嵐が来た時、けたたましいサイレンを聞きながらシェルターに逃げ、嵐が過ぎ去ったあと、外に出ると、全然たいした嵐ではなく、近所の人たちが嵐で落ちた枝を拾っているシーンです。

 こんなシーンをわざわざ入れたのも「現実の嵐」では、悪夢とは違って「この程度」なんだという「伏線」と解釈しました。
 そんな「化け物じみた嵐」なんか現実にはあり得ないし、「そんなことを描きたい映画じゃないです」と。

 つまり、この映画はSF的パニックムービーではないので、「色つきオイルの雨が降る、終末的な嵐」などというものは、この世には存在せず、そんな非現実的な嵐は「夢の中にしか存在しない」し、「カーティスの妄想に過ぎない」ということを示す「伏線」と解釈しました。

■そしてラストシーン。
 このラストシーンへは、カーティス一家で「本命の」医者のカウンセリングを受けている病室のシーンから、(例によって)いきなり「ビーチのシーン」へと、パッと切り替わります。

 その前の、医者が「まずしばらく休暇を取って、ゆっくりした方が良い、あのシェルターからなるべく離れた方が良い」と言い、妻が「実は毎年ビーチに旅行に行っていて」と応えます。

 その次の瞬間、お金がなくて断念したはずの「ビーチ」のシーンに切り替わるので、観ていて「あれっ、お金はどうしたんだろう」と思いました。

 これまで「ビーチ旅行」には、空缶に保管している封筒に、へそくりをしていくほどお金がかかることを「伏線」として提示済みです。
 そして、大切な一人娘の手術も控えていて、「その費用も不足している」という「伏線」も提示済みです。

 よって、「ビーチには行きたくても行けない」状態のはずです。つまり「お金が何とかなって、ビーチに行けたらいいのにな」という、彼らの「夢」のはずです。

 その娘との「夢のような」幸せいっぱいの砂遊びをしていると、娘から、沖の方に「この世の中にはあり得ない巨大な竜巻がある」ことを示され、この「夢のような幸せなひととき」は、「カーティスの夢に過ぎない」ことが、娘によって示されます。

 さらに妻が、雨が「色つきオイル」であることを確認するシーンによって、このビーチはカーティスの「夢」であることを「ダメ押し」します。
 これまでどおり「こんな巨大嵐」なんてこの世に存在しないし、「色つきオイルの雨」なんてあり得ないので、鑑賞者に対して「ここはまたカーティスの夢のシーンですよ」と。

 主人公は娘を抱っこして妻を見つめ、妻も夫を見つめて小さく頷き、主人公と娘は家の中に入りますが、妻は中には入らず、そのまま「色つきオイルの雨」を浴び続けます。

 これを観ていて、「うわ、今度こそ妻が凶暴化しちゃうのか?、悪夢の中でどうなるんだろう」と思いましたが、ずっと嵐を見つめている妻は「あれが、あなたが言う嵐だったのね」という感じで(初めて夫を理解できたかのように)そのまま嵐を見つめ続けます。

 妻が、あの迫り来る「巨大な嵐」に対して、逃げるどころか、憎々しげに睨みつけている姿が、とても印象的です。

 確かに、妻にとってみれば「大切な愛する夫を狂わせる、憎き心理的病巣」ですもの、睨みたくもなるというものです。
 妻にしてみれば「この巨大嵐さえなければ、私たち家族は今までどおり、幸せに暮らせるのに」と。

 その妻の後姿を見つめる、娘を抱っこした主人公も、逃げ出したくなるのを必死に我慢し、なんとかその場に踏みとどまります。
 自分はこれを観ながら「そうか、これは、カーティスの病状改善の「入口」を示すシーンなんだ」と思いました。

 今まで、誰にも理解してもらえなかった「自分の病巣」を、妻も娘も知り、理解し、自分も逃げずに、そこに踏みとどまって、「家族で一緒に立ち向かっていくんだ」という「決意の表れ」に、ついに変化した「カーティスの悪夢」。

 ここから先は、たとえ「悪夢の中」でも、家族三人で「一緒に乗り越えていくんだ」というラストシーンなわけですね、かっちょいいです。
 で、つい書きたくなりました(笑)

◆その他のディテールについて

<妻がいかに愛情にあふれた家庭的な女性であるかを示すシーンの数々>
 映画の前半は、妻がいかに夫と娘に献身的な愛を注ぎ、たとえどんな困難な状況になっても、「決して諦めない」という性格を示す、妻の設定のバッグボーンになる描写の数々ですね。
 本当に「こういう奥さんがいたらいいのにな」と思いました(笑)

<娘が「聴覚障害者」である設定が示すもの>
1.精神を煩うカーティスの娘も、やはり「外界との遮断性」を秘めているのか、というのを感じました。(三代に渡って受け継がれていくのか?という)

2.家族で「手話教室に通って習っている」ことで、「家族の絆、苦労、お互いを思いやる気持ち」を示す、とても自然な描写ですね。(シャワーも浴びずに行って、臭いと笑うシーンも含めて)

3.「父親の異常さ」を描く際、「娘の手術よりも、シェルターを作ることを優先する」とした場合、軽度の治療ぐらいではあまり大事ではないので、娘の「聴覚障害が治るかもしれない」という重要度こそ、妻が思わず「ひっぱたく」ぐらいの精神的変調を表現できる設定になるわけですね。

<自分は10歳の時に、実の母親に置き去りにされたという設定>
 その過去があるため、「自分の家族だけは絶対に離さない」と誓い、それだけは守っていることを示し、「たとえどんなに狂気に陥り、そのために親友は裏切ったとしても、家族にだけは危害を加えない」というメンタリティーを提示する理由にしていますね。

<家の庭に深く穴を掘り、避難用シェルター作りに没頭する設定>
 つまり、現実の世界においても、彼は外界と閉ざされた、内なる空間を求めていたのではないでしょうか。(「ひきこもりたい」といった衝動)

<ガスマスクが示すもの>
 最初「なぜガスマスク? 雨は問題あっても、空気は関係ないだろ」と思いましたが、これも「外界との遮断」に対する「異常性」の表現のひとつなのでしょうね。
 確かに正常な人は、嵐が来た時に、ガスマスクをかぶろうとは思いません(笑)

<カーティスの食堂での怒り爆発>
 このシーンによって、ついに近所中に、カーティスの異常性を知られることになってしまうわけですが、そうなっても、妻も娘も「カーティスを見放さない」んだという、強い愛情と覚悟を感じさせるシーンですね。

 夫をどこまでも深く愛し、近所中からどう思われようとも、夫を支え続ける妻の強さ、愛情の深さを示し、どこまでも、諦めずに、この夫の「心理病巣」に、敢然と立ち向かっていくという思いを示すシーンですね。
 これも、ラストの「巨大嵐を睨みつける」シーンの「妻の意志」を示す「伏線」のひとつなのかと。

<本当の嵐のあと、シェルターの扉を開けて外に出るシーン>
 妻が、夫の心理的倒錯を解く「きっかけ」にするため、現実の嵐が過ぎ去ったあと「あなたが開けないと意味がないの」と、これまでにない強い調子で言い、うながすシーンですね。
 自分で開けるべき扉は、「心の扉」でもあるわけですよね。

■じゃあ、このあとは?
 ここで映画は終わっていますが、もしこのあとの続きを考えてみるなら、次のようなものではないでしょうか。

◇カーティスが、この「ビーチの夢」から、病院のベッドまたは自宅のベッドで、目を覚ます。

◇ベッドの傍らでは、妻と娘が心配そうに見ている。(あるいは、もう「一人だけ専門施設に入所した治療」が始まっていて目覚める?)

◇唯一「お金の問題」が残るが、場合によっては、自宅ごと売却して「ローンの返済」「娘の聴覚障害手術費」、さらに自分の「専門施設への入所費」を捻出するのかもしれない。

◇この「ビーチの夢」をきっかけに、本命の医師の指導により、家族の支えもありながら、少しずつ「巨大嵐の恐怖」に立ち向かい、何とか恐怖に打ち勝つ(リハビリ?)治療をしていく。

◇治療後は、家族揃って、慎ましやかな賃貸にでも移り、仕事を見つけ、いずれはカーティスの悪夢も完全に消えていくのかもしれない...。

テイク・シェルター [DVD]

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コメント 11

なるほど!

とてもわかりやすい解説でした!
最後のシーンでは寒気に襲われるほど衝撃的で(実際に日が暮れてかなり寒かったのですが…)、すぐさまスマホでタイトルを検索してこちらにHITしました。
おかげでスッキリです!
他に類を見ない心理ホラー?で、面白い映画でしたね。
お邪魔しました[ムード]
by なるほど! (2014-02-06 18:31) 

Virai

 ご丁寧なコメント、どうもありがとうございます。
 本当に圧巻のラストシーンで、もしかすると、作者(脚本家や監督)は、このラストシーンのために、ラスト以前の組み立てをしていったのかな、というぐらいですね(笑)

 多少でも参考になりましたら幸いでした。
 これだけおもしろい出来映えですので、Part2は創らないのかなと思っていたりもします(笑)
by Virai (2014-02-07 13:50) 

P

こんばんは、初めて解説を読ませていただきました!
録画していたこちらの作品をつい先ほど観て、ラストシーンでん?これは現実なの?と一瞬思いました。すぐさま、いや、現実だったら壊れた展開になるじゃないか!!と思い直しました笑
ですが、現実ではない根拠と言いますか、"悪夢"である理由が自分では見つけられず解説サイトを検索し、2つのサイトに行きつきました。1つはこちらのサイト。もう1つは主人公が預言者であり、最後の最後で破綻した作品であるというサイト...
私にはこちらの解説のがしっくりきて、わだかまりをスッキリさせることが出来ました♪
ありがとうございました(^^)
by P (2014-02-08 21:22) 

Virai

 賛同のコメント、どうもありがとうございます。
 ラストシーンで、「色つきオイルの雨」が降っている時点で、あれは「現実ではなく、悪夢の中」である、と伝えているのだと思います。

 おっしゃるとおり、自分も「主人公が預言者で、最後の最後で破綻した作品である」という見方の方が無理があるし、その「見方」の方が破綻しているように思われますね(笑)

 スッキリいただけて良かったです(笑)
by Virai (2014-02-09 23:56) 

通りすがり

悪夢は主人公視点でしか描かれません
ラストシーンでは妻、子供視点が映されているので現実だととらえるのが妥当だと思います
これを完全解説と銘打って評するのは如何なものでしょうか
by 通りすがり (2015-10-27 15:22) 

Virai

 (記事のタイトルの付け方も含め)あくまで個人の、個人的な見解ですので、見解は違うものですので、反論しなくて大丈夫です(笑)
by Virai (2016-06-22 16:41) 

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Netflixでみました。
ラストが??で検索してこのサイトを見つけました。
主様の解説がいちばんしっくりきます。
家族と共に精神疾患に立ち向かう主人公の描写ですね。
解説ありがとうございました。
by お名前(必須) (2017-11-08 01:23) 

Virai

 賛同のコメント、どうもありがとうございます。
 自分は当時DVDレンタルでしたが、もうNetflixで観る時代ですね(笑)
 つい、精神疾患に立ち向かう主人公と家族に「がんばれ」と応援したくなる映画ですね。
by Virai (2017-11-10 15:59) 

名無し

悪夢は主人公視点だけだったのにラストの悪夢では妻、子供視点もあるっていうのは
同じ環境下で生活してた妻と子もいずれ精神疾患を発症し、言われ続けてた内容と同じ悪夢を見始めてる状況ってオチな可能性ないですかね^^;
予知じゃないならただ不快な呪いでしかなく主人公たちに本当に何の得も無いですね...
by 名無し (2018-11-22 18:17) 

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"目が覚める"シーンではなく図書館で借りた本のからカーティスの病識の有無が分かりました。
カーティス視点のシーンを全て偽と判断して作品を観ていた為、”本当の嵐”のシーンも偽で奥さんによる心理療法だと思っていました。
しかし、後のシーンでカウンセリング自体が偽かもしれないという思いに至りました。
となるとカーティスの治療は、怪しげな剤形のマイスリーのジェネリック品のみなので作中での現実と非現実の線引きが難しいところです。
個人的にはDHMOのような皮肉を懐きました。
by お名前(必須) (2018-12-12 10:00) 

お名前(必須)

解説ありがとうございました。
おかげですっきりしました。
by お名前(必須) (2018-12-20 04:39) 

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