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NHK『欲望の経済史(後編)』レビュー [Essey]

『NHK BSスペシャル 欲望の経済史(後編)』レビュー

 『欲望の経済史 — ルールが変わる時(前編)』を書いてから、随分と時間が経ってしまいました。

 前回のブログ記事の最後に、
「※ 追って、『欲望の経済史 — ルールが変わる時(後編)』に続きます。」
としていました。

 「(前編)」を書いてから少しして、そろそろ「(後編)」を書こうかと思い、続きの番組を観ようとしたら、なんと観られなくなっていました。

 NHKのWebサイトで「NHK BSスペシャル『欲望の経済史 — ルールが変わる時』」を検索しても、「番組を見ることはできません」となってしまいます。↓

https://www2.nhk.or.jp/archives/chronicle/pg/page010-01-01.cgi?hensCode=000022250356501019577

 NHKの正式なWebサイトなのに、「番組を見ることはできません」って、なんともおかしな話ですね。

 つまり、「正規に購入して観たくてもできない」状態だったために「後編」を観られず、書けなかったわけです。

 これはあまりにもおかしいので、「なんらかの圧力が掛かっている」とみるのが自然のように思います。

*ここで言う「圧力」とは、「この番組を観て欲しくないと思う人たち」のことです。

※さらにここで言う「番組を観て欲しくない人たち」とは、このブログ記事の「貨幣経済と金融支配体制を考える<1> 〜 <6> 」に登場する人たちのことを指しています。

 逆にこんなことをされると、「なんとかして続きを観なくては」という気になるというものです(笑)

 ということで、いろいろ手を尽くして、やっとこの度「続きを観ることに成功」したので、「後編」レビューのスタートです。

 すでに観終わった方向けの思い切り踏み込んだ内容なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*あくまで個人的な「まとめ」ですので、番組内では語られていないこと、番組での解釈とは違う場合があります。

*そして、ここに書いたことが、自分と違うからって反論する必要はありません。
(あなたが私の受け取り方や考えに賛同する必要はありませんし、私もあなたの意見、考えに合わせて意見を変える必要はありません。)
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NHK BSスペシャル『欲望の経済史 — ルールが変わる時(後編)』より

◆経済学の父 アダム・スミス

 経済学の父と言われ、マーケットの“見えざる手”で有名な『国富論』を著したアダム・スミスは、巨万の富を稼いでいた重商主義者たちが「絶えず、戦争を引き起こさせている」状況に気づいていた。

 さらに「市民を戦争に巻き込む」ため、ナショナリズムを巧妙に高揚させていることも。

 当時のイギリスを始めとする帝国列強が、インドなどの「貿易で莫大な富を得られる植民地」を増やそうと競争し、奪い合い、「戦争が避けられない状況」を作り出させていることを。

 あるいは、植民地側に反乱を起こさせ、その「鎮圧」を大義名分に、戦争を始めさせることも。

 アダム・スミスは、「重商主義という名の帝国主義を推し進めることで、市民が支払うことになる莫大なコスト」を見抜いていた。

 アダム・スミスが当時、すでに指摘していたのは「富の収奪」とそれが引き起こす「戦争のサイクル」からの脱却をしなければならないということだった。

 その巨額の「戦費」を賄うため、国は「重商主義者たち」から借金を繰り返し、その返済のために次々に重税が課せられ、毎日、市民たちが「労働」「仕事」という名のもとに朝から晩まで働かされ、搾取し続けられている。

 アダム・スミスは、軍事力を背景に、独占貿易で富を強奪する「東インド会社」のあり方を痛烈に批判した。

 「東インド会社は、国家並みの鈍重さと、私企業並みの強欲さを兼ね備えた最低の組織だ。」by アダム・スミス

◆国の借金

 アメリカは住宅バブルの時、実は「1ドルの経済成長を得るために、3ドルの負債」を増やしていた。

 今、中国は、「1ドルの経済成長を得るために、4ドルの負債」を増やしている。

 報道などで「ほかの国の成長率はせいぜい2%程度なのに、中国の成長率は6%で凄い」と言われるが、この「莫大な借金の上に作られた虚像」であることを知ったら、同じことが言えるだろうか。

◆投機

 「投機」というのは、誰かが得をすれば、その分、誰かが損をする「ゼロサムゲーム」だ。

 実際の株式市場で「投機」をするのは、マネーファンドを請け負う「銀行、大口投資家、ヘッジファンド」である。

 「投機」は本来、多くの人々の関心事ではない。

 しかし、その「投機」が、現実社会にも多大な影響を及ぼすことが大問題となっている。

 そして、株式の「投機」以上に、多大な影響を及ぼすのが「不動産投機」だ。

 なぜなら、不動産は、国民資産のおよそ半分を占めているためだ。

 よって、日本のバブル崩壊、アメリカのリーマン・ショックのように、実体経済が崩壊し、壊滅的なダメージになってしまう。

 ごく一部の人が「投機」をしているせいで、多くの「投機とは無縁」な一般市民が巻き込まれている。

 それが今の「金融資本主義」の実態である。

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 ↑「後編」を観て、なんとアダム・スミスが当時すでに「重商主義者たち=ユダヤ人による“国際金融支配体制”」を見抜いていたことを初めて知りました。

 学校の授業等で散々聞いた『国富論』の“見えざる手”でしたが、本筋はそこにあったのかと。アダム・スミス、さすがだなと。

 逆に、よく対比される「ケインズ」の思想が「ユダヤ系国際金融マフィア」のベースになっていることも知りました。

 ケインズは、経済に対する「国家の介入」の必要性を主張したのです。

 これは「国が積極的にお金を使うことで、景気を支える」という考え方です。

 しかし、それは「政府の権力」を強くし、すべてをコントロールする「国家主義」とつながる危険思想へと変容されていきました。

 これを感じた「20世紀の“知の巨人”ハイエク」は、ケインズの思想を「隷従への道」と呼び、激しく批判しました。

 国家権力が強まり、政府の権限がとてつもなく大きくなれば、さまざまな規制が強化され、国家による「戦争のための経済活動」計画が推進されていくからです。

 軍事的な目的に合わせて、モノの生産量がコントロールされ、勝手な「徴兵制度」によって、強制的に、労働者が兵士へと変更されるのです。

 このように「ケインズの思想」は、「ユダヤ系国際金融マフィアの代弁者であった」または「(本来の趣旨とは違って)悪用された」と受け取るのが自然と思われます。

◆新自由主義について

 さらに、ミルトン・フリードマンは「マネタリズム」の方法論を生み出し、「新自由主義」を主張しました。

 これは「国家にお金の印刷を任せておけば、常にインフレを引き起こせる」という考え方です。

 しかし実際には、国家ではなく「独立する中央銀行」が「マネーの量を決定」しています。

 なぜなら、主要国の多くが「国で通貨を発行できない」からです。

 もっとも大切な「通貨発行権」を、ユダヤ系国際金融マフィアに奪取され、国家の通貨を「単なる株式会社が発行している」という異常さです。

 もちろん、「日本銀行」も株式会社です。

 「イングランド銀行」も、「アメリカのFRB」も、「各国の中央銀行」はことごとく、ユダヤ金融マフィアが最大株主になっている株式会社です。

※詳細は、このブログ記事の「貨幣経済と金融支配体制を考える<2>」をお読みください。

 『NHK 欲望の経済史』(前編・後編)を通して観て、

「ユダヤ教の特殊性」により、「時間が経過するだけで、莫大な富を生み出す魔術=利子」を活用して、「ユダヤ系国際金融」が「国への高利貸し」を行うための「重商主義」を生み出し、それが「国家主義を強化させ、戦争を引き起こす」ということを、「アダム・スミスは当時すでに看破していた」

ということがよくわかりました。

 自分の中で「何かおかしい」と感じていた「多くの違和感」が、この番組のおかげで、「そうだったのか」と、かなり納得することができました。

 こういう良質な番組が、以前は観られたのに「NHKオンデマンドで配信中」と記述されたまま、現在は「エラー」と表示されて「観られない」という現実の「異常さ」が、真相の正しさを逆に証明しているように思えます。



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NHK『欲望の経済史(前編)』レビュー [Essey]

『NHK BSスペシャル 欲望の経済史(前編)』レビュー

 今頃なのですが、たまたまネットで、この番組の存在を知りました。

 なかなか興味深かったので、番組の「気になった部分を引用」しつつも、自分なりの表現でまとめてみました。

 すでに観終わった方向けの思い切り踏み込んだ内容なので、まだ観ていない方はご注意ください。

*あくまで個人的な「まとめ」ですので、番組内では語られていないこと、番組での解釈とは違う場合があります。

*そして、ここに書いたことが、自分と違うからって反論しないでくださいね(笑)
(人それぞれ受け取り方がありますし、何も「同じ考えでなければいけない」わけではないので)

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NHK BSスペシャル『欲望の経済史 — ルールが変わる時(前編)』より
https://www2.nhk.or.jp/archives/chronicle/pg/page010-01-01.cgi?hensCode=000022250356501019577
(なぜか現在、「番組を見ることはできません」となります。
 これはおかしいですね。なんらかの圧力が掛かっているとみるのが自然な気がします。)


『今、世界で、格差が拡大し、分断が進む。
 その原因は何か?

 それをもたらしたルールはただ1つ、「利子」という「時間と金銭とを交換する」蛮行である。

 この「時が富を生む魔術=利子」は、一体誰が思いついたのか。

 もともとキリスト教では、「利子を取る」ことは禁止されていた。

 キリスト教だけでなく、仏教、ヒンズー教、イスラム教でも、世界のあらゆる宗教が「利子」を禁止している。

 なぜなら、あらゆる問題を引き起こす「元凶」だからだ。

 ところが、世界でただ1つ、利子を肯定した宗教がある。それがユダヤ教だ。

 ユダヤ教の経典には、

「異邦人には利子をつけて、貸し付けて良い。

 ただし、あなたの兄弟に貸す時には、利子を取ってはならない。(申命記)」

とある。

 世界の宗教の中で、ユダヤ教だけは、仲間と他者を「明らかに選別」し、利子を取ることを肯定した。

 そのため、世界で唯一、ユダヤ人だけが「高利貸し」を行い、職業化していった。

 シェイクスピアの「ベニスの商人」は、「ユダヤ人のシャイロックが商人に金銭を貸し、利子として、腹の肉1ポンドを要求する」というストーリーによって「債務によって、命を落とす」危険性を表現した。

 シェイクスピアは、利子の恐ろしさ、債務は身を滅ぼすこと、債務によって命を落とすこともあることを、こうして警告した。

 こうした「利子への忌諱」をかいくぐったのが、イタリアのメディチ家である。

 フィレンツェのメディチ家は、金融業だけでなく、毛織物やシルクの工房も経営し、貸倒れリスクをヘッジする抜け目なさだった。

 メディチ家の第2代 コジモ・デ・メディチは、ロンドン、ジュネーブなどに支店を開設し、ヨーロッパ全域をネットワークする金融網を築き上げる。

 こうして、世界で初めて「為替レートの違い」を利用し、ロンドンの安いレートで資金を調達し、高いレートのローマで貸し付けるといった方法で、巨万の富を築いていった。

 そのような巨万の富に対して、世間・社会からの不満・怒りが高まると、それらをそらすため、芸術に莫大な資金を投じ始める。

 それは1つの「社会への還元」効果として、フィレンツェを発祥とした、ヨーロッパ全域にわたる文化運動=ルネサンスへと花開いていく。

 16世紀の宗教改革の主導者ジャン・カルヴァンは、「カトリック教は利子を禁じたが、すべては偽善だった。」と主張した。

 カルヴァンは、

「これまでカトリック教徒も、何らかの方法で“利子にあたるもの”を取っていたし、そのような偽善はもう止め、利子を認めるべきだ。」

とした。

 さらに1745年、ローマ教皇ベネディクト14世によって、「時間には価格がある」という考えが示され、それまでのルールが書き換えられた。

 これらを契機に、こうした考えが社会全体に拡がり始め、利子が認められるようになっていった。

 それは重商主義、戦争(戦費の貸し付け)、グローバリズムと国家の関係、株式市場を生み出す起源ともなった。

◆文化人類学者 デヴィッド・グレーバー

「貨幣の真の目的は、“借用書”であり、貨幣を持つことは、国家の債務を負うことと等しい。

 ある日突然、暴力的な回収を受ける可能性があるのが貨幣だ。

 その起源は、犯罪と賠償、戦争と奴隷制、名誉、負債、救済の中に見い出せる。」

 これが実は「経済の本質」である。

 「時間が経過する」だけで、「利子」という「富」を生み出す。

 この「利子」という「禁断の果実」によって「貸し付ける者」に対してだけ、「時間」そのものが「富」を生み出していく。

 永遠に続く「時間」という「富」が、「利子」という「富」を、永遠に生み出し続ける。

 今や、世界でトップ8人の資産が、人類全人口の下位半分(36億人分)と同じになった。』
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 この番組を観て、「なぜ、ユダヤ人が “国際金融支配体制” を築けたのか」がよくわかり(納得でき)ました(笑)

 世界で唯一の例外「ユダヤ教の特殊な教え」があったからこそ、「ユダヤ人」だけが「先行者利益」を独占し、いち早く体制を構築できたのだと。

 貸した瞬間から「単に時間が経過する」だけで、「利子」という「富」を生み出す「禁断のしくみ」を、最大限活用したからこそ、世界を支配する体制まで築けたのだと。

 「時間こそが富」なのだと。

 そういう意味では、ユダヤ人だけではなく、自分たちにとっても「自分が自由に使える時間」こそが、最大の「富」なのでしょうね。

 その貴重な「自分の時間」を切り売りしている場合ではないですね。

 ましてや「時間つぶし(暇つぶし)」なんて、最大の「愚行」ということですね(笑)

 自分たちも「時間=富」を意識して、生活していきたいものです。

 以上で、「前編」のレビューは終わりです。

※ 追って、『欲望の経済史 — ルールが変わる時(後編)』に続きます。


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学校教育を考える<5> [Essey]

 日本では戦後復興していく中、教育基本法で「教育の中立性」を謳いつつ、教育委員会と日教組という対立構造が組み込まれていきます。

 このような手法は、各国への内政干渉と同様、まとまりのない社会を作り上げるための、典型的なやり方となっています。

 中教審や臨教審といった組織を立上げ、支配者側が進めたい方向へ、自分たちの意向を反映させるためのシステム作りと言えます。

 軍人を育てるための兵学校と同様、すべての学校は、チャイムが鳴るとともに始まり、チャイムが鳴るとともに終わる、厳格なタイムスケジュールで運用されます。

 授業開始のチャイムさえ鳴れば、嫌でも席につき、どんなにつまらない授業でも、次のチャイムが鳴るまで、じっと我慢して座っていることを強制されます。

 食事の時間も、みんなと一緒に、同じ物を、決められた時間内に、食べ終わなければなりません。

 時間通りに、集団行動することが、学校という空間を支配する基本的なルールであり、「義務」教育として、国民全員を放り込み、その習性を叩き込むわけです。

 それこそが最大の目的である以上、学校で「勉強を教える」のは2の次であり、学校以外に「塾に通う」などという、バカげたことが成り立つ社会状況となっているわけです。

 さらに言えば、今だに、あちこちで問題視される「社会の実情とは大きく乖離した、学校独自のおかしな校則」についても、そもそもの目的が(兵士として)「集団のルールに従うことを仕込むための学校」という視点から見れば、その奇妙さが「なぜなのか」という意味がわかります。

 異常さを表す校則の例では「天然パーマは、それを証明できる幼児期の写真を提出すること」「通学時は2列以下の横隊歩行し、道の右側を歩くこと」「目的もなく廊下を歩いてはいけない」「チャイムが鳴っている間は動いてはいけない」「スカートは膝上5センチまで」「ポニーテールは禁止」「父親以外の異性とは一緒に歩いてはいけない」「マフラー、手袋禁止」などですね。

 これらはすべて、異常な「理不尽」な校則ですが、軍隊、兵学校と思えば、あり得る規則なのでしょう。

 登校時の服装チェック、教室での頭髪検査、持ち物検査など、まさしく「兵士育成学校」そのものであって、勉強とはまったく関係ないですね。

 ということで、日本の学校教育の奇妙さは、もともとが「国民国家と工業化社会の実現」という装置のために生まれた歴史的産物である、ということです。

 現在の学校教育を巡る議論に欠けているのは、こういった歴史的視点であり、これを改めるという発想がない限り、根本的な解決は望むべくもありませんね。

 以上、「なぜ、日本の学校教育はこんななのか、こういう状況になっているのはなぜなのか」を「考えてみる」でした。
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学校教育を考える<4> [Essey]

 日本は敗戦後、アメリカを始めとする連合国軍に占領され、それまでの学校教育の内容が、また異なるものに変更されました。

 アメリカ(ユダヤ系国際金融権力の手先)の狙いはあくまで、日本を支配し、自分たち用の「拠点」とすることです。

 戦後の学校教育は、GHQの決定により、小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学4年と定められました。

 戦後の『新教育指針』によって、アメリカによる日本人の自虐史観を強く刷り込む流れが作られ、日本人の反米意識の矛先を、巧妙に回避するしくみが構築されました。

 本来であれば、市街地に原爆投下などという、市民も女性も子どもも、何もかも巻き込んだ無差別の大量虐殺行為は、人道上あり得ない残虐行為です。

 それを唯一やったのがアメリカであり、日本を占領しているのもアメリカであるにも関わらず、日本人は自分たちの戦争行為を反省し、アメリカの言いなりになる奴隷と化していきました。

 ほとんどの日本人がすっかり洗脳されてしまい、アメリカのことを「いざとなったら助けてくれる」「サポートしてくれる」友人とさえ、思ってしまっているわけです。

 敗戦前日まで「鬼畜米英」と言っていた人たちが、コカ・コーラを飲み、ジーンズを履き、サーフィンをする、アメリカンカルチャー・ライフスタイルに憧れる人たちに、180度変貌していくわけです。

 これほどまでに見事な「洗脳教育」は、どのようにして進化してきたのでしょうか。

 その原点にあるのは「金貸したちによる支配のための洗脳教育」という背景にまで遡ります。

 その始まりは「キリスト教を利用した洗脳」戦略・作戦でした。

 バチカン(カトリック)を支配し、プロテスタントをも洗脳していった金貸したちが、国全体にキリスト教教育を行うことで、身分の上下を容認する意識に洗脳していくことに成功します。

 貴族、平民、奴隷という身分階層、生まれながらの不平等などを受け入れさせるための洗脳です。

 ヨーロッパの場合、ギリシアの時代から(同じ人間であるのに)奴隷を作り、使い捨てしてきました。

 その発想の原点は、人間を家畜同様に飼い馴らすという発想にあります。

 キリスト教(プロテスタント)では、教職者を「牧師」と呼び、「迷える子羊」(家畜)たちを導くというわけです。

 「羊の群れ」を思いのままに操るには、群れのボス的存在を作り、そのボスに追従させるという思想です。

 当時のギリシア・ローマでは、自分たちのことを「市民」と称し、自分たちの平等を口にしながら、市民だけが平等であって、市民の数倍にもなる(同じ人間なのに)奴隷をこき使っていました。

 しかも、ギリシャの哲学者たちも、その自己矛盾に気づかず、平気でいる精神構造はどうなっているのでしょうか?

 これらの「意識化」の根源にあるのは「自我の塊」ということですね。

 自我とは「他者否定」と「自己正当化」のことであり、強烈な自我の塊であるということは、真の平等意識のかけらもない、ということと同じです。

 言い換えれば、自分たち以外の他人を、同じ人間とは見なさず、口先だけではどうこう言っても、潜在意識の中では家畜視しており、「そもそも同じ人間ではないのだから、支配しても、騙しても、殺しても良い」と思っていると。

 実際、ユダヤ教の聖典である旧約聖書には「奴隷」という言葉が頻繁に登場し、現人神になる人間がいるから、奴隷にされる人間も生まれる、高い身分があるから、低い身分もある、というのが当然の認識として語られています。

 つまり、徳の高い自分たちだけが「自由・平等」で、その他の低い者が虐げられても平気でいられるという、自分たちとは別の基準(自己都合によるダブルスタンダード)をもともと持っているということです。

 日本人や(アフリカを始めとする)その他の地域の人たちから見れば、そんな考え方は、論理性も、整合性もないわけですが、古代からそのような視点・認識が欠落したままなわけです。

 そういう認識だからこそ、「奴隷制」や「原爆投下」などの非人道的な暴挙を、平気で行えるわけです。

 キリスト教を利用した、指導者に従わせるための「調教」として、「羊は羊として生きること」と「支配されること」を受け入れさせる洗脳が実行されてきたわけです。

 家畜が、群れとしてまとまって歯向かってこないように、あるいは社会全体のことに視点が向かわないように「個人主義」を教え、「自由」や「人権」など「微妙な対立構造」を仕組み、仲間や集団同士で「競争相手」として教育し、成功してきたわけです。

 続きは「学校教育を考える<5>」にて。
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学校教育を考える<3> [Essey]

 明治政府は1889年、大日本帝国憲法を発布し、その翌年には「教育勅語」を発布しました。

 「教育勅語」は「日本国民の理想像・模範をまとめた」とされるものですが、1〜11までは、割と普通のことですね。ただし問題なのは、最後の「12」です。

<教育勅語12の徳目>
1.親に孝養をつくそう(孝行)
2.兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
3.夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
4.友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
5.自分の言動をつつしもう(謙遜)
6.広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
7.勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
8.知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
9.人格の向上につとめよう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
12.国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)

 明治政府によって「国家の一大事(戦争)になれば、勇気を奮い立てて身も心も御国(天皇陛下)のために捧げ、天皇のご運勢が栄えるようお助けしなければならない」という「天皇主権」の精神が盛り込まれた点です。

 そして、「明治天皇の名で、国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語」と位置づけられました。

 これは、国歌「君が代」でも同じで、もともとは『古今和歌集』の短歌の一つで、「恋愛の歌」であったのに、天皇のための歌であるかのようにすり替えられました。

 もともとの本来の意味は、「君」とは「昔の女性が、好きな男性のことを言う言葉」で、「代」とは「時代を超えて」のことで、「千代に八千代に」は、「千年も万年も永遠に、生まれ変わっても」という意味です。

 「さざれ石の巌となりて」は、「固く結束して協力しあい」で、「苔のむすまで」は「固い絆と信頼で結びつこう」という意味です。

 ところが明治政府は、天皇が臨席する儀式用の歌として、この『君が代』を選び、宮中の雅楽の楽人がメロディーをつけ、ドイツ人が吹奏楽用に編曲し、天長節に最初の演奏を行います。

 そして「君」とは天皇のことであり、「天皇の世が永遠に続くように」という天皇崇拝の歌であるかのように喧伝していきました。

 当時(明治政府)の文部省が『君が代』等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示し、小学校の儀式用唱歌としました。

 こうして、ユダヤ系金融権力の思惑どおりに、明治政府によって、教育も「日本国民全員を戦争に駆り立たせる体制」の一環として、整えられていきました。

 明治時代も終わりを迎える頃には、初等教育から高等教育に至るまで基本体系が整備され、明治後期から大正初めにかけて「学級制」が導入されました。

 この「学級制」の導入により、有無を言わさず、同年齢の子どもが集められた狭い学級で、道徳教育・国民教育を浸透(洗脳)させる、画一的な教育を受けさせるシステムが完成しました。

 ただ「同じ年齢」というだけで、進度も理解度も関係なく、全員に同じ「画一的な教育」を押し付けるシステムです。

 海外には当然、個人の能力に応じて、個別指導や飛び級制度などがありますが、兵士育成目的である日本の学校教育には、今だに存在しません。

 日本が太平洋戦争に突入すると、戦時中の学校教育は「お国のために」というスローガンのもと、極端な国家主義教育が展開されていきました。

 それまでの「二宮金次郎の像」を象徴とする「立身出世ために学ぶ」というのは置き去りにされ、あらゆることが「国が最優先」にすり替えられました。

 1941年(昭和16年)には、国民学校令の公布により、小学校が国民学校と改名されました。

 国民学校の目的はもちろん「天皇の名のもとに戦死する兵士」であり、幼少期から兵士を育成するためのカリキュラム(軍事訓練)に変更されました。

 「体育」における集団行動、行進練習、組み体操(マスゲームの一種)なども、その名残です。

 今だに、人間ピラミッドからの落下などで、重篤な事故が(まれに死亡事故も)起きているのは、よく報道されているとおりです。
(兵士なんだから、訓練中に死んだって構わない、ということなのでしょう)

 最近になってようやく、問題視されるようになり、一部では「組み体操を全面禁止」とした学校もあるようですが、自分も小学生の頃、なぜ、こんなことをさせられるのだろうとずっと思っていました。

(その頃は、まったくわかりませんでしたが、真相を知ってさえいれば、断固拒否していました(笑))

 「気を付け、前ならえ、休め」も「起立、礼、着席」も「軍事教練」の名残ですし、坊主頭、学生服(詰め襟)、セーラー服(海軍)も「兵学校」の名残ですね。

 一人のミスを班の「連帯責任」とするのも、軍隊(小隊)の行動訓練の一つですね。

 全員が共通意識のもと、誰も裏切らず、逃げ出さないよう、徹底して同調圧力をかけるのが軍隊の常套手段です。

 太平洋戦争の長期化に伴って、「国民総動員」が叫ばれ、学徒出陣や勤労動員など、学生も兵士として、婦女子は軍事工場での強制労働を強いられました。

 さらには、人的資源だけでなく、国内のほとんどの物資も、戦争のために接収されました。

 極端な物資不足に対しては、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンのもと、全国民が(現在の北朝鮮以上に)困窮状態に突入していきました。

 このように日本の義務教育が、全員を徴兵するための「国民皆兵制度」になっているということですね。

 つまりは、日本の義務教育において、生徒に「考えてもらっては困る」ということであり、ひたすら従順に、暗記だけしていればいい、という授業カリキュラムのままだということですね。

 終戦から、もう70年にもなるのに、このような状態が今だに継続しているという状態なわけです。

 続きは「学校教育を考える<4>」にて。
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学校教育を考える<2> [Essey]

 明治政府によって始められた「学制」のしくみは、当時のフランスの制度を真似したものでした。

 フランスでは1870年、普仏戦争の敗北によって「第三共和政」が成立していました。

 戦勝国であるドイツ帝国のビスマルク宰相の承認のもと、L.ティエールが仮政府を組織し、75年2月にフランスの新憲法が制定されました。

 この時の教育制度を通じて「革命の祖国」「民主主義の祖国」としての「偉大な祖国フランス」というスローガンを、国民全員に植えつける(洗脳する)のに成功します。

 こうしてフランス国民はナショナリズムを高めていき、政府は軍備強化と対独強硬論を訴え、国全体で戦争機運を高めていき、第1次世界大戦に突入していきます。

 このシステムを真似して作られた日本の学制は、スタート当初、全国を8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区に分け、これをさらに210の小学区に分け、全国で53,760の小学校があったとされます。

 その目的は、日本を工業化し、経済活動を活発化し、不平等条約を結ばせて、その富を吸い上げ、同時に巨額の戦費を借金させ、他国と戦争させるための国民教育を浸透させるというものです。

 当時(無理矢理)日本の義務教育が開始された時点では、学校に通わない子ども・制度に反対する家庭の方が圧倒的に多い状態でした。

 「学制」がスタートからしばらくの間は、学校に通う子どもなど、ほとんどいなかったわけです。

 「学制」に従わなかったのは、子どもという貴重な労働力喪失への反発、高額な授業料に対する反発でした。

 「学制」のお題目は、「国民全員に、貧富の差や身分の違いなどに関係なく、平等な教育を施そう」というものでしたが、庶民が払えるような授業料ではなかったわけです。

 いかにも、ユダヤ系金融権力の内政干渉による「無理矢理」が引き起こした、矛盾だらけのマヌケな話です(笑)

 その前から、ユダヤ系金融権力に従順な明治政府による地租改正、徴兵令など、国民をないがしろにする政策に対する不満が噴出していたところに、この「学制」導入で国民の怒りは頂点に達し、各地で「学校焼討ち事件」まで勃発しました。

 こうして、たった5年(1879年)で「学制」は廃止され、代わりに「教育令」を公布することとなりました。

 さらに1886年、(付け焼き刃の)「教育令」を廃止し、帝国大学令、師範学校令、中学校令、小学校令を公布しました。

 ちなみに「学制」のスタートと同時に公布された「被仰出書(おおせいだされしょ)」には「学問に励めば、将来出世して豊かになれます」と書かれていました。

 それまで、大多数の庶民には必要とされていなかった学問を、全員にさせるための方便として使われました。

 被仰出書にある「学校で勉強すれば貧しい家庭のあなたでも将来豊かになれます」という立身出世の思想を、全国民に布教し始めたわけです。

 それをもっともわかりやすい、象徴するものとして作られたのが「二宮金次郎の像」です。

 勤勉に働き学んだ結果、農民から武士の階級まで出世した人として、明治以降の子どもたちに「勉強することに意味を持たせる」イメージ戦略として利用されました。

 洗脳システムを浸透させたい明治政府側は、プロパガンダとして「二宮金次郎の像」を、ほとんどすべての小学校の校庭などに設置しました。

 こうして「立身出世主義」の布教と授業料の減額・無償化などによって、ようやく日本の就学率は上昇していきました。

 しかし実態は、国民全体を中央統制化された政府の下で管理・教育し、近代工業化に必要な労働力を徴収し、戦争時には都合の良い兵士を確保しやすくするための「教育制度」であったわけです。

 工場労働における労働者は、機械の歯車と同じ扱いであり、必要とされるのは自主性でも主体性でもなく、ただただ「現場監督の指示に忠実に従って、働き続ける」ことです。

 そうした人間は、軍隊の兵士にも必要な属性であり、「労働者兼兵士」を作り上げる制度として、見事に機能しました。

 これが「日本の学校教育」制度、成り立ちの実態です。

 続きは「学校教育を考える<3>」にて。
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学校教育を考える<1> [Essey]

 日本の学校教育は「物事を覚えさせる」だけで、「考えること」や「考える方法」を「教えない」と言われます。

 試験問題も、1つの正解を覚えて、覚えた答えを書き込むだけのものがほとんどです。(選択式、穴埋め式、並替え式、計算問題といった解答方式など)

 日本の学生は、学校教育で「考える訓練」を受けていないから、社会に出た時にすぐに役に立たない、即戦力にならない、とも言われます。自分自身の実体験を含めて、本当にそう思います。

 なぜなら、社会に出た途端に、「ただ1つの正解」など、どこにも存在しないからです。

 何が「正解なのか」なんて(神様でもない限り)誰にもわからないし、逆に「自分で正解を創り出す」のが社会における仕事であり、創造性であり、ビジネススキルです。

 つまり「あらかじめ決まった答えを覚える」なんて、勉強でもなんでもないわけで、単なる「作業」に過ぎません。

 どんなに「作業」を、重労働したところで、頭が良くなるわけがありません。

 自分自身、(日本の学校教育に沈没させられていた)学生時代を今思うと「暗記しているだけで、まったく考察していなかった」ことに愕然とします。(当時は、その点に気づけませんでした(笑))

 学生時代の自分は、今思うと、ホント、どうしようもないぐらいのバカに、まんまと仕立て上げられていました。

 海外の学校教育は「覚える」ことよりも、「考える」ことが中心のため、試験問題も論文中心となり、あるテーマに対して「自分の考えを書きなさい」というものになっています。

 どうしてこんな学校教育になってしまったのか、この状況は「なぜなのか」を「考えてみる」です。

 もともとの日本の教育は、江戸時代には「藩校」があり、武士を対象として、各藩の武士の子弟を集めて、儒学を中心に教えるものでした。

 庶民向けには「寺子屋」があり、寺の住職や浪人などが「読み書きそろばん」を教え、江戸時代末期には、全国に1万5千の寺子屋があったと言われます。

 寺子屋で使われていた教科書を「往来物(おうらいもの)」と言い、今でも多数のものが文献として残されています。

 また、より高度な教育機関として、著名な学者などが指導した「私塾」では、蘭学、医学、兵学などの多様な学問が教えられていました。

 今の「義務教育」の歴史は、1872年(明治5年)の「学制」という制度から始まり、まだ百数十年に過ぎません。

 それまでの日本は、政府が作った「学校」に「人々が通う」という習慣自体、なかったわけです。

 明治政府が作った「学制」は、19世紀ヨーロッパの義務教育制度を、真似して作られました。

 なぜ、そうなったかと言えば、このブログの「貨幣経済と金融支配体制を考える<3>」にも書いた「ロスチャイルド系国際金融権力」による内政干渉です。
http://virei.blog.so-net.ne.jp/2017-08-23

 そもそも「明治政府を樹立した」とされる「維新の志士」たちは、ロスチャイルド財閥の系列会社「マセソン商会」の代表トーマス・グラバーに「イギリス留学」をさせてもらっていた人たちです。

 もちろん、旅費も滞在費もすべて「マセソン商会持ち」で、この時点で「子飼いとなった」と言って良いでしょう。

 幕藩体制を崩壊させた主力部隊である薩長連合は、グラバー商会から大量の武器供与を受け、戊辰戦争で旧幕府軍を打ち破り、討幕します。

 明治憲法を草案する際にも、伊藤博文らが1882年にイギリスに渡り、ロスチャイルド家の紹介で、ユダヤ人憲法学者のドルフ・フォン・グナイストとロレンツ・フォン・シュタインから指導されています。

 ユダヤ系国際金融財閥としては、インドや中国のように植民地(奴隷)化するよりも、日本の場合には「私塾」出身者など、意外に知的レベルがあったので、いっそのこと近代化させ、アジア全域を掌握する拠点にしようと思ったのでしょう。

 欧米からの距離を考えたら、「拠点作り」は絶対に欠かせません。
 「補給」しかり、「修理・整備」しかり、「休養・準備」しかり。(今だにそうですね)

 実際、当初は明治政府内にも「国際金融権力」の意向に従う「(自称)国際主義派」と日本独自の精神を守ろうとする「民族主義派」が、せめぎ合っていました。

 しかし結局は、国際金融資本の圧倒的な力に屈し、(無理矢理)近代化が押し進められ、日本銀行(ロスチャイルド系資本による株式会社化、通貨発行権の独占)が設立され、政府が莫大な借金を背負わされて、軍備増強が図られます。

 そして、さらに巨額の戦費を借金させられ、日清・日露戦争へと突入していきます。

 この影響は、教育の世界にも広がり、「義務教育制度」を悪用した「国民国家思想」の浸透、洗脳教育へとつながっていきました。

 明治期の教育制度は、「学制」がフランスを真似したもの、教育内容がアメリカを真似したものから始まりました。

 どちらの国も、(国際金融権力にとっては)キリスト教を国教とした「思想統一」を教育に組み込み、国民国家思想を定着させた成功例の繰り返しです。

 ところが、日本にはキリスト教のような統一された観念体系が存在しないため、それに代わる意思統一を図る観念として「天皇」が神格化され、「天皇臣民」教育が作られました。

 こうして1872年(明治5年)の「学制」発布により、「学校教育制度」がスタートしていったわけです。

 続きは「学校教育を考える<2>」にて。
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評価と評判について考える [Essey]

 通常、何かを「評価する」には、いくつかの評価軸と、多数の評価項目によって詳細に分析し、その結果としてアプトプットすることで行われます。

 ところが、そのような発想や思考がなく、ただなんとなく、例えば「世間の評判」的な、根拠のない「噂話」程度で、評価してしまう人を多数見かけます。

 そのような、実際の価値の実体が伴わない「印象操作」のみで作られたブランドは、考えが浅い人が魅了される「幻覚」に過ぎないですね。

 それは「ブランド・ファンタジー」であって、真の、実体が伴ったブランドとは異なります。

 そのような偽ブランドは、「小手先のごまかし」に過ぎず、深い思考を持った人には、簡単に見破れます。

 とてもわかりやすい例を出すなら、インチキ通販にありがちな「タレントの△△さんも長年のご愛用者です」といったものですね(笑)

 その商品(その会社)と利害関係がないと思われそうな人が、その商品を評価していると聞かされると、思考の浅い人はその評価を信じてしまいたくなることを、行動心理学では「ウィンザー効果」と言います。

 購入しようと検討している商品に対して知識がない、調べている時間がないなどの理由で、本来の購入理由が決定打とならない場合、人は他の人に同調しようとします。

 自分自身の評価軸を放棄し、「あの人も、この人も使っているから大丈夫だろう」といった安心感を得たいわけです。

 特に日本人は横並びを好むため、「とにかく多くの人が使っているものを購入しておけばハズレを引くことはないだろう」と考える人が大多数です。

 これを行動心理学では、「同調現象」と言います。

 また、専門分野に話題が及ぶと、必ず現れるのが「その道の権威者」です。

 取り扱う商品がサプリメントであったり、化粧品であったりした場合、含有成分を解説する際に「△△大学の教授」の意見など、専門家のコメントを添えることで、「権威ある人が言っているのだから」という心理だけで、購入を促すことに成功します。

 通常は、価格帯が上昇するほど需要が減るものですが、それに逆らい、ステイタスを顕示したい心理で購入される商品(≒ブランド品)は、実際の価値を大きく上回る消費行動を起こします。

 これを、行動心理学では「ヴェブレン効果」と言います。

 世の中には、このような行動心理学を悪用した商品、偽ブランドが溢れている、ということを認識できている人は、意外と少ないのかもしれません。

 そのような姿勢は、「思考の浅さ」と「他人の評価に左右される率」との相関性が認められるように思われます。

 つまり、思考の浅い人ほど、他人の評価に左右されるということですね(笑)

 それは「自分の評価軸の放棄」であり、他人の(しかも、どこの誰ともわからない、なんとなくというレベルの)評価に左右されている状態に過ぎないわけです。

 真に、十分に思考が深ければ、一切の「世間的評判」を無視し、論理的な評価軸と評価項目によって、正しく判定、評価することができるようになります。

 その結果が、事前の自分の予想、期待と異なっていたとしても、自分自身の評価を直せばいいわけですから、簡単なことです(笑)

 人としての成長が不十分で、思考が未発達な人、思考が浅くて、他人の評価に左右される率が高い人は、そこでなぜか、感情的なものを持ち出し、正しい評価をひっくり返そうと試みる傾向が見て取れます。

 ロジックでは、ひっくり返らないので、感情的なものを持ち込もうとするのでしょう。

 十分に思考が深い人は、評価・分析を行うにあたって、可能な限りの偏見や個人の主観的な判断を回避し、ロジカルに、客観的な評価軸と多数の評価項目によって、評価を実施することに努めます。

 どれだけ、「世間的評判」が高かろうと、イメージだけは良かろうと、そんなものはまったく関係ありません。

 正しい評価は、ロジックに基づいた評価手法による「評価法」でのみ実施できることを理解できています。

 例えば、映画にもなった「マネー・ボール」という、大リーグのアスレチックスにおける画期的な野球選手採用手法がわかりやすいですね。

 メジャーリーグの貧乏球団・オークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGM(ゼネラルマネージャ)が、セイバーメトリクスと呼ばれる独自の手法を用いて、プレーオフ常連の強豪チームを作り上げていく実話ですね。

 それまでは、「経験と直感」を頼りにスカウトをしてきた、ベテラン現場スタッフは「野球は数字じゃない」と猛反発しました。
(しかし結局、自分たちの「誤り」を思い知らされます。)

 それまで慣習的に行われてきた「選手の過去の実績やネームバリューなど」をすべて無視し、野球の勝率を上げるために必要な「要素」を列挙してデータベース化し、統計的な回帰分析から「得点期待値」というものを新たに設定し、評価・判定するという手法です。

 すると、年棒の低い、無名の選手ばかりのチームになったにも関わらず、大リーグ全球団で「最高の勝率」を記録することに成功します。

 その後も、アスレチックスの快進撃で実績を作り、すっかり有名になった選手を、他球団の有望な若手プレイヤと次々にトレードし、無名ながら活躍する選手を育て上げ続けるという手法で、常勝軍団を築き上げていきます。

 アスレチックスでの大活躍で、オールスターにも出場したトレバー・ケーヒル投手を放出し、代わりにダイヤモンドバックスの若手有望株ジャロッド・パーカーという右投手を獲得するといった手法です。

 ダイヤモンドバックス時代のパーカーは、まだ1試合しか先発していないルーキーであったのに、アスレチックスに移籍した年に13勝8敗、翌年も12勝8敗と、いきなりエースへと成長しました。

 もっと身近な、身の回りにある商品で言えば、例えば「品質に違いはない(同等な)のに、△△△というロゴが付いているだけで、割高な商品を購入する」といったことですね。

 実質的な価値に対する正しい評価軸を持たずに、ただなんとなく「高級」といったイメージ、漠然としたステータス感、世間の評判が良いから、といった程度の理由で評価してしまうということですね。

 それでは単なる「ロゴ」に、何万円も払っているだけ、だというのに(笑)

 実は世の中に溢れている、「印象操作」のみで作られた、実際の価値の実体が伴わない「ファンタジー・ブランド」に大金を貢ぐのは馬鹿馬鹿しいので、評判などに惑わされない、自分の評価軸を持つことが大切ですね。

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思考の深さを考えてみる [Essey]

 最近、多くの人が「外界からの情報刺激に対して、ただ単に感情的に反応するだけ」という状況をよく見かけます。

 ただ単に、ニュースを読むだけ、知るだけ、「腹立たしい」と反発するだけ、「へー、なるほど」と納得するだけ、の方がラクだからなのでしょう。

 本来「自分の頭で考える」ということは、なんでも鵜呑みにせず、すべてに対して疑ってかかり、必ず自ら検証し、他人とは違う「自分なりの見解」を導き出すことを言います。

 そこまでの「思考の深さ」がない場合、「浅はか」どころか、「何も考えていない」のと大差ないですね。

 哲学者ソクラテスは、真に「考える」のに必要な、すべての原点となる「無知の知」を根本的な考えとしました。

「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。
 真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。」というやつですね。

 また、数学という「考える」ための2大学問において大きな業績を挙げ、それらの基礎を築いたのが、フランスの哲学者・数学者であるルネ・デカルトです。

 幾何学の基礎を築き、哲学上の業績して有名なのが「方法的懐疑」ですね。

 デカルトは、ありとあらゆるものを疑ってかかり、最後に残った「疑いようのない」ものが、疑っている「自分自身の存在」でした。

 それを表現した有名な言葉が「我思う、故に我あり」ですね。

 真に「考える」ことの基礎には、必ず「疑うことを必要とする」を代表する表現と言えます。

 すべてを疑ってかかることが、なぜ重要なのかと言えば、「自分の頭で考える」ことの対極にあるのが「他人の意見にむやみに従う」ことだからです。

 「自分の頭で考える」とは、自分なりに他人と違う見解を見出すことです。

 さも当たり前と思っていた「周りの事象」に対して疑問を提示し、本当は「どうなのか?」と、自分自身の見解として導き出すには、すべてを疑うことからしか始めようがないからです。

 今そこにある情報は、どこの誰がなんの根拠を持って発信しているのか、その情報は本当なのか。

 「正しい」「間違い」といった意見は、ほとんどの場合、絶対的なものではなく「状況による」ものがほとんどです。

 ところが、多くの人は、自分が置かれている状況が、すべての人と同じであるという錯覚をもとに、反応しがちです。

 それでは、その当人や関係者にとっては「正しいこと」でも、状況が変われば「間違い」にも十分なりうるということになります。

 ある主張をしている人が「部分しか見ていないことに気づいていない」という「自分が無知であることを自覚していない状態」に陥っている状態です。

 このようなことが多く発生する原因は、世の中の大多数の人が信じている「常識やルール」は、環境の変化によって「間違いに変化する」ことが挙げられます。

 にもかかわらず、一度、大多数に正しいと思われた常識、子どもの頃から身につけた価値観などに、固執するわけです。

 自分の「無知」を認められず、過去の古い(今では、すでに間違っている)常識やルール、価値観を、いつまでも変えられないわけです。

 いわゆる「頭の固い」(あまり物事を考えずに、1つの考えに固執する)人たちの特徴として、自分の信じている価値観を、まったく疑わないことが挙げられます。

 これでは、柔軟な発想を阻害する諸悪の根源にしかなりません。

 このような状態から抜け出すにはまず、「そうか、自分が間違っていたのか」「自分は知らなかっただけなのか」「自分が理解できていなかったのか」と、自分自身の状態を疑ってかかることから始まります。

 クリエイティブな人やイノベーションを起こせる人材は、日頃から、接する情報に対して、自分なりに加工・応用し、発想や自分の行動を錬磨するべく、内的作業をする思考のクセを身につけています。

 それは「こうかもしれない」「こういうこともありうる」と、外側の世界を自分内部の思考の枠組みに引き寄せ、その中で理解し、新たに自分で創造しようという試みでもあります。

 ブレインストーミングやディベートなども、誰か他人がいなければできないわけではなく、自分ひとりでこの作業を繰り返せるのが、優秀なクリエイターやイノベーターです。

 自分の中に独力で場をつくり、その思考の場の中で、複数の違う自分を立ち上がらせながら、相互にディスカッションできる人材こそ、次々と問題解決策を思いつき、独創的なアイデアを紡いでいける思考法を身につけた人です。

「凡人が敷いたレールに、自分の思考を乗せないのが、優秀さの特徴である」
by スタンダール(フランスの小説家。本名:マリ=アンリ・ベール)

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「働くこと」を考えてみる [Essey]

 人はなぜ、働き始めたのでしょうか。「働く」とは何でしょうか。

■「働く」意味

 そもそもの語源(諸説あります)は、「傍(はた)を楽にする」で「働く」と言われます。

 自分の周辺の「傍(はた)」にいる人たちの負担を軽くしてあげる、楽にしてあげる、ことを意味し、家族を楽にすることも「働く」意味でもありました。

 そういう意味では、親から頼まれた「家の手伝い」だって「働く」ですね。

 人類の先史においては、死なないための、生存をかけた「生きるための食料を得ること(狩猟・採集)」が仕事でした。

 その時代、食糧がなくなれば、餓死するほかはありません。

 古代では、農業革命によって「食糧を作る」時代になり、農耕をすることが仕事となりました。

 集落を作り、大量の食糧を生産して、備蓄できるようになると、「食料を得る」以外の仕事(祭事(宗教)や政治、道具作り、職人、医者など)が生まれました。

 さらに生活が安定してくると、踊り子や演奏家、音楽や絵画などの芸術家、プロスポーツ選手といった職業が成立するようになります。

 現代においては、多種多様な職業を、自由に選べる時代となりました。

■「働く」ことの本質

 それらの変遷において、職業としてのカテゴリーではなく、「働く」本質には、次の4種類があることがわかります。
----------------
1.労働
 生きるために働く労働。労働によって賃金を得ることで、食糧そのほかの生活物資を得る。

2.創造
 生きるのに必要な食糧以外の「モノ」を作る。

 人間の生活をより豊かにするような「モノ」を創造することで、その「評価」として、食糧そのほかの生活物資と交換できる「対価」を得る。

(例)車、テレビ、パソコン、モバイル、本(コンテンツ)、ソフトウェアなど、なくても生きられるし、以前にはなかったモノなど。

3.支援
 自分以外の、ほかの人を支援することで、その「報酬」として、食糧そのほかの生活物資と交換できる「対価」を得る。

 大きくは「サービス業」と言われる働き方。

(例)医者、看護師、介護士、理美容士、コンサルタント、相談員、占い師など。

4.娯楽
 人の心を豊かにする仕事。芸術、スポーツ、観光産業など。
----------------

 ここで考えるべきは、上記1.の「生きるための労働」は、(どんな職業でも)つまらないだろうなということです。

 これは「人類の先史時代」と同じ程度の「働き方」であり、楽しさや働きがいを感じられる段階には達していないレベルですね。

 次に「2.」は、(どんな職業でも)創造性を発揮すること自体が楽しくて、やりがいを感じる人にとっては、楽しい仕事、やりがいのある仕事となり、楽しく働けることでしょう。

 「3.」も、「人を支援する」ことに喜びを感じるタイプの人であれば、楽しく働け、充実感を感じる仕事となるでしょう。

 同じく「4」も、自分にとって「人を楽しませる」ことこそ楽しい人であれば、どうやって人を楽しませるかを必死に考え、実際にそれが成功したとき、この上ない喜びを感じる仕事となるでしょう。

 ということで「働く」においては、「何ができるか」でも、「何がしたいか」でもいい、ということになります。

 どれを、どう選び、どう働くかは、本人次第ですね。

 どうせ「仕事をする」なら、しかたなく「生きるために働く」=「労働」ではなく、自分の周り「傍(はた)」にいる人たちを楽にしてあげるための「働く」でありたいものですね。

 どんな職業でも、単なる「労働」にしてしまっては、つまらない仕事、つらい仕事になることでしょう。

 どんな職業であっても、自分が「何がしたいか」「何をすると楽しいのか」で働けば、充実感のある、達成感のある仕事になるのでしょう。

■肉体労働と頭脳労働

 もう1つ、別の角度から「働く」を考えてみます。

 ここまで思考してきたように、「働く」というのは「時間の拘束」ではありません。

 もちろん「時間給」という仕事もありますが、それは多種多様な「働き方」の中の「一形態」に過ぎません。

 そして、もっとも働きがいのない「単に賃金を得るための労働」です。

 よく「肉体労働」とか「頭脳労働」といった言い方をしますが、「頭脳労働」とは、まさしく「脳の活動によって働く」ということであって、「拘束時間」は関係ないですね。

 本来の「頭脳労働」においては、単なる「労働時間」が、その対価として反映されるわけではありません。

 「頭脳労働」とは、つまり「脳の活動」=「考えている」だけなので、はたから見れば、何もしていないようにも見えることもあるかもしれません。

 コピーライターでも、デザイナーでも、設計士でも、ただ「椅子に座って腕組みをして考えている」のも「仕事」であり、働いている真っ最中なわけで(笑)

 あるいは、作家アガサ・クリスティーが生み出した名探偵たちは、自室を出ることなく、話を聞いているだけで事件を解決してしまうので、これぞ究極の「頭脳労働」ですね。

 なにしろ、ゆったりした椅子に腰をかけて、お茶を飲みながら、話を聞いているだけなのですから。

 しかしながら、非常に質の高い仕事、社会的価値の高い仕事ぶりです。

 もしくは、映画「ウォール街」のスーパー投資家「ゴードン・ゲッコー」(実在の世界的トレーダー「アイヴァン・ボウスキー」がモデル)も、配下の者に「アナコットスティールを買いまくれ」と、オフィス内のランニングマシンでジョギングしながら「言う」だけです(笑)

 そして、宿敵の投資家ワイルドマンに高額で売却し、莫大な富を得ると。

■思考と実行

 真の「頭脳労働」においては、何も、自分が「実行者である必要はない」ということになります。

 自分が仕事するための情報収集も、事務的作業も、実際の事務処理も、それぞれの「実行者」に頼んで、してもらえば良いわけです。

 「頭脳労働」のもっとも重要な要素は「集まった情報を整理・分析し、理解し、判断し、仮説を立て、実行を決断する」という点です。

 このような「頭脳労働」においては、「思考」こそがもっとも重要な「仕事」であり、その最高責任者が「経営者」ということになります。

 「経営者」は、実作業をする実行者ではなく、思考と判断、決断を行う「責任者」です。

 ところが、これがまったくわかっていない、全然できていない、ダメダメな経営者をたくさん見かけます(笑)

 ただ「役職が社長になっただけ」という人たちですね。

 上司から気に入られることに汲々とし、年功序列の順送りで、やっと社長になれたといった人たちは、単なる「社長の担当者」ですね。

 不祥事を起こした企業の謝罪会見を、ニュースで見る度に、思わされることです。

 それでは「役職だけ社長」であって、実体は「単なる生活労働」に陥っている「労働者」に過ぎませんね(笑)

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